丸暗記と丸写し

小平邦彦編『新・数学の学び方』(岩波書店、2015年)は、高名な数学者たちが、「数学の学び方」というテーマで各々の考えを書いたエッセイを集めた本だが、これを読むと、多くの数学者が丸暗記と丸写しを推奨しているのが印象的である。

丸暗記にせよ、丸写しにせよ、非効率でもあり、退屈でもあるので、いい勉強法ではない、とかつて私は思っていた。

しかし今は丸暗記と丸写しの効用が分かる。

数学で言えば、高校までの数学は、記号を覚え、公式を覚え、解法を覚えさえすれば、ほとんどの問題は解けるようになり、やっていることのイメージもつくようになるのだが、それは高校生のために抽象的な所を省いてくれているからで、大学になると一から厳密に数学を組み立てるようになるので、イメージしづらい議論が展開されていく(多くの大学一年生はε-δ論法で躓く)。イメージしづらいものは整理しづらいもので、その前後で何が言われているのかもよく分からなくなる。そういうときは、丸暗記と丸写しが役に立つ。実際数学の教科書を丸写しすると、意外なほど話がよく飲み込めるようになった経験がある。

これは数学に限った話ではない。私は大学の卒業論文でヘーゲルを扱うことにしたはいいものの、ヘーゲルの書いていることがほとんど読解不能で、どこから手を付けていいのか分からず、入門書や専門書を読んでも分かった気がしなかった。そこで、ヘーゲルのドイツ語をとにかく書き写し、その横に日本語訳を付けていった。そうすると、ただ読んでいただけでは分からなかったことがいろいろ分かるようになった。それだけでなく、私は自分の文章も丸写しをした。卒業論文を書く少し前にノートパソコンを壊したので、家ではノートに論文の下書きをし、後から研究室のパソコンにそれを打ち直していった。すると、自分の書いた文章でも、やはり丸写しするうちに気づくことがいろいろあり、かなり手直しすることができた(丸写しとは別の話だが、紙に書くのとキーボードで打ち込むのとでは何かはっきり違うところがあって、紙に書く方が丁寧に書きやすいと思う)。

そもそも学問の世界では、暗記しておかなければ話にならないというようなことは少なくない。文学でも数学でも法学でも物理学でも、どの論文のどこに何が書かれていたか、ある出来事が起こったのは何年何月のことだったかといったことは、すぐに思い出して整理できなければ、正確な理解に近づくことは出来ない。

そういえば、高校時代に遡っても、暗記の効用ということは言える。古文の授業では、枕草子、徒然草、方丈記、平家物語などの冒頭を暗誦させられたものだったが、あの中にあって覚えた単語や文法というのは、決して馬鹿にならないものだったと思う。古文よりも暗記が効いたのは英語で、洋楽の歌詞を覚えていて、後から役に立ったことも少なくないし、『英文標準問題精講』の英文は、難しかったので何度も読んだ結果、部分的に暗記してしまった。

闇雲に丸暗記したり丸写ししたりするのは非効率だし、深く理解する方が大切なのはもちろんだが、何度読んでも、何度考えても分からないところや、有名な文章は、丸暗記、丸写しするのはいい方法だろう。

また、西洋の書物を読んでいると、何の断りもなくまた注釈もなく、聖書に依拠した文言が書かれていることがある。東洋では同じことが論語や孟子で起こる。それはその地域、その時代の人々にとっては聖書や論語の語句がすらすら言えるのが当たり前だったからで、そういう人ならいきなり「一粒の麦地に落ちて死せずば」とか「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とか言われても「ああ、あれか」と分かるので困らないのである。そういう、いわば共通言語であるような書物に関しては、暗記しておくと、それ自体を理解するのとは別の利益もついてくる。

論語といえば、昔は「素読」という、なかなかいい訓練があったようである。素読とは、論語の文言を、意味を説明しないで読ませる訓練で、生徒は例えば「子曰学而時習之不亦説也」という白文を見ながら、「シイワク、マナビテトキニコレヲナラウ、マタヨロコバシカラズヤ」と意味も分からず唱えるのである。前時代的で不毛な教育法に一見思えるが、実はそうではなく、言葉のリズムやイメージが、それで身に付くようである。それは、大人になってから身につけるのは不可能に近いものだ。若い頃に学ぶものとしては、それゆえ、内容ではなく形式が貴重だ。孔子の言葉の意味ではなくてその言葉のリズム、古文のリズム、近代小説のリズム、短歌のリズム、英語のリズム、数学のリズム。小林秀雄と岡潔の対談『人間の建設』の中で、孔子の言葉は人生経験がないと分からないし、複数の解釈がありうるものだから、意味を教えるのは却ってよくない、と言って素読を高く評価するやり取りがある。私もそう思う。

材料さえ適切ならば、私は丸暗記と丸写しを大いに勧めたい。好きな材料があればそれがいい。中でも少し理解に苦しむくらいの難易度のものがいい。好きなものが特になければ、有名なものがいい。

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