孔子は、「もし政治を任されることになったらまず何をなさいますか」と問われて、「名を正す」と答えている(子路第十三)。それを引き受けて、荀子は「名を正す」ことの重要性を強調し、詳しく論じている。

「名を正す」ことが、どうしてそんなに重要なのか。ものごとの名称(の用法)が誤っていたならば、例えば刑罰が上手く機能しない、ということが言える。法典に「窃盗は○○の刑に処する」と書かれているとき、「窃盗」という言葉が誤って用いられたら、罰せられるべきでない人が罰せられたり、反対に罰するべき人が罰せられなかったりするのは明らかだろう。刑罰以外でも、言葉の用い方が混乱しているために、つまらぬ誤解を生んだり、争いが起こったりすることは、決して珍しいことではない。

つまり、意志疎通や仕事が円滑に進み、不必要な手間や争いが起こらないためには、言葉の用い方がきちんとしていることが必要なのだ。

では実際「名を正す」にはどうすればよいか。法律で言えば、混乱の生じうる文言は、改正することができる。また、法律の文言は変わらなくても、学説によって、解釈が変わることもある。法律以外でも、ほとんどの出版物では、校正という手続きがあるし、学説によって言葉の解釈が変わることはある。ところで、学説によって言葉の解釈が変わるというのは、ある人々が自分の研究に基づいて意見を発表し、さらにその意見が多くの人に受け入れられたり、その意見の影響で多くの人の考えが変わったりした結果、ものの見方が変わり、結果として言葉の使い方が変わるということだ。

したがって、「名」が「正」されるということが起こりうるのは、一つはその言葉自体が書き換えられる場合(書き言葉に限る)、もう一つはその言葉を使い、解釈する人々の考え方が変わる場合である。

しかし、同じことは「名」が混乱させられることについても言える。書き言葉は不適切に書き換えられ、人々の言葉の使い方は、妙な風に変わることもある。(言葉の使い方は常に変わりゆくものだから、「正しい」使い方などないはずだ、という考えもある。確かに「正しい」使い方はないが、マズい使い方というのはあるのだ。)

だから問題は、言葉が書き換えられたり、人々の考え方が変わったりする時に、それが「正しい」方向に変わるのはどういう時か、そしてそのためには何をすればよいか、ということである。それは、言葉の使い方やその背後にある様々なものごとを、私たちがよく理解しているかどうかに懸かっていると思う。私たちは、(争いの少ない、うまく機能する社会に生きたいと思うならば、)私たち自身が使っている言葉や、その言葉の背景、すなわち私たちの生きているこの世界について、よく知ろうと努めなければならない。

そして、教育という仕事は、そのための一助にならなければならないと思っている。

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