国語、英語、数学の勉強について

これは、塾生に読んで貰おうと思って書いたものですが、字数が多すぎて、結局配るのを止めたものです。

国語の勉強 

国語を勉強するとは日本語を勉強することではない 

まず、国語を勉強するとはどういうことでしょうか。「国語」を英語で言うと”Japanese”だと習いますし、「国」の「語」ですから、日本語を勉強することだと考えられます。 

しかし、英語その他の外国語を勉強するのと、国語を勉強するのとはわけが違います。英語を勉強する目的の一つは、英語をすらすら読んだりぺらぺら話したりできるようになることですが、日本語はもう、読んだり話したりできるでしょう。英語では単語や文法を覚えなければなりませんが、日本語では、その必要はあまりありません。日本語には不自由していない。こう言って、国語の勉強を軽視する人もいるのではないでしょうか。 しかし、実際には、日本語を読み書きすることは、難しいことなのです。

ところで、私たちの間には、日頃さまざまなトラブルが起こります。その原因はさまざまでしょう。しかしその際、不用意な言葉はトラブルを増やし、適切な言葉はトラブルを退けるものです。ところが、皆さんより長年日本語に付き合ってきたはずの大人たちでも、喧嘩をしたり、面倒ごとにまき込まれたりすることは、珍しくありません。 

これはどういうことでしょうか。わざと厄介ごとを起こす人がいるのでしょうか。言葉ではどうにもならないほど深刻な問題だったのでしょうか。もちろん、中にはそういう場合もあるでしょう。しかし、実体験に照らして考えてみれば、相手の言葉を誤解したり、誤解を招くような表現をしてしまったりといった、言葉の上での行き違いが、その一因にあることが多いように思われます。 

言葉は、トラブルの始まりだけでなく、終わりにも、というより、終わりにこそ、重要です。何故なら、トラブルを終結させるものは、言葉か、さもなくば暴力かしかないからです。もし、トラブルを終結させる言葉を語ることができなかったり、語ることを諦めてしまったりすれば、暴力によって相手を抹殺するか、逆に抹殺されるかしかなくなります。 

要するに、日本語を使う(読み、書き、話し、聞く)と言っても、おしゃべりをしたり品物を注文をしたりするほどの日本語を使う人は多くても、起こったかもしれないトラブルを避け、一度トラブルが起こればそれを治めるほどの日本語を使う人はそう多くないということです。 

そして、ここまでの話を理解して頂けたならば、後者の意味での、いわば高度の日本語力というのは、言葉の辞書的な意味や文法を知ることを超えて、人の心や社会のありようを知ることをも含むことは、すでにお分かりでしょう。 

「もの」と「こと」を知る 

国語を勉強するとは、つまり、「もの」、「こと」を知ることです。日本語では、「ものを言う」とか、「もの言い」というように、「もの」には「言葉」という意味がありますが、それだけでなく、「道理」(「ものの分かった人」、「ものごころつく」)とか「霊」(「もののけ」)とか「不思議な力」(「もの悲しい」、「もの狂おしい」)のような、いわば人を内から動かす力を「もの」と言います。それに対して、「こと」にもやはり、「ことのは」、「ことだま」のように「言葉」という意味がありますが、「ことわる」が元来ものごとをはっきり分けて理解すること(事-割る)であるように、「こと」は、具体的な事実や出来事のことです。「もの」、「こと」を知るとは、人の心や世の道理を知り、具体的な事実を知ることです。「こと」と「もの」については、まだよくイメージできないかもしれませんが、後から順々に分かってくるはずです。 

「もの」、「こと」を知るというのを、敢えて一言で言えば、「私たちがどのような世の中を生きているか」を知ることです。 

古文や漢文を学ぶ理由も、ここにあります。明治維新以後、日本は急速に近代化しました。教育と道徳の基本であった漢籍は二束三文で売られ、代わりに西洋の文物が競って輸入されたと言います。しかし、例えば今でも天皇制が残り、お祭りが残り、キリスト教が広まっていないことからも分かるように、西洋化できない部分、もしくは西洋化すべきでない部分があるのです。ですから、「私たちがどのような世の中を生きているか」を知るためには、西洋化以前から、私たちの間にあった「もの」、「こと」を知らなければなりません。それには、『論語』を、『史記』を、『万葉集』を、『源氏物語』を読むしかないのです。もちろん、私たちは西洋化以後の世の中を生きているわけですから、西洋のものを読むことも必要です。 

実体験と読み書き 

では、いよいよ実際上の話に移ります。国語を勉強するためには、具体的にどうすればいいのか。「私たちがどんな世の中を生きているのか」を知るためには、どうすればいいのか。それには、実際にいろいろな人と関わったり、いろいろな土地を見て回ったりすることも必要ですが、それを理解し、言葉にするためにはやはり読むことと書くことが必要です(話すことと聞くことについては、ここでは触れませんが、いずれも大切なことです)。 

どう読むか 

読むといっても、何をどう読めばいいのか。これについて、ショーペンハウアーという哲学者が、『読書について』という名高いエッセイで、つまらぬ本を読むな、良い本だけを読めと言っています。ただ、ここで注意しておかなければならないことは、良い本をたくさん読む、というのは、たくさんの良い本を読むということではない、ということです。そうではなく、良い本を何度も何度も繰り返し読むということです。良い本というのは、読むたびに新たな発見があるものだ、ということがよく言われます。いかに良い本でも、一通り読んで済ましてしまっては、ほとんど読んでいないのと同じです。 

とはいえ、いかに良い本でも、同じ本だけを読んでいては、分かることに限りがあります。どんな本でも、いろいろな「こと」を説明しないで済ましていますから、それらの「こと」を知るのにはまた別の良い本に当らなければいけないわけです。ですから、最初は何冊もの良い本を次々と、理解はそこそこにして読んでいかなければなりません。例えば、森鴎外の「高瀬舟」は、自殺しようとして死にかけている弟に頼まれて、死ぬ手助けをした男が、人殺しとして罰せられる、という、いわゆる自殺幇助を扱った痛ましい話です。しかし、鴎外は、自殺幇助がどう良くてどう悪いかについて、はっきりしたことは何も言っていない。そこで、例えば生命倫理だとか人間の尊厳だとかの抽象的な話を読むと、高瀬舟の話がより深く理解でき、逆に抽象的な話の方も、高瀬舟の具体例によって理解しやすくなる。もう一つ例を挙げれば、夏目漱石の『こころ』では、明治天皇が崩御した後に乃木希典という軍人が殉死して、それが大きな衝撃を与えるという場面がありますが、殉死ということも、それが衝撃を与えるというのも、現代人にとってはよく分からない。天皇や殉死や当時の状況について書かれたものを読むと、それらがだんだん分かるようになるのです。このように、特に初めのうちは、ほどほどの理解でどんどん読んでいくのがいいのです。それで、大まかなことが掴めて来たら、一冊の本を繰り返し読むというのが理想的です。 

ところで、良い本とはどういう本なのか、良い本と悪い本をどうやって見分けるか、と問うならば、ショーペンハウアーによれば、良い本とは、良い本だと賞賛されている本のこと、つまり古典です。古文や漢文の教材や問題文として採用されているのはほとんどそうですし、現代文では、長い間教科書に採用されている作品は、特にそうだと言えます。例えば評論・随筆では夏目漱石「現代日本の開化」、「私の個人主義」、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」、小林秀雄「無常ということ」、丸山眞男「「である」ことと「する」こと」、渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」、清岡卓行「失われた両腕 ミロのヴィーナス」など、小説・詩歌では森鴎外『舞姫』、「高瀬舟」、夏目漱石「夢十夜」、『こころ』、芥川龍之介「羅生門」、中島敦「山月記」、井伏鱒二「山椒魚」、梶井基次郎「檸檬」、魯迅「藤野先生」、島崎藤村「小諸なる古城のほとり」、斎藤茂吉「死にたまふ母」、宮沢賢治「永訣の朝」、室生犀星「小景異情」などです。私はかつて、古典を軽視して、新しい、独創的なものに憧れを抱いていました。しかし、古いものに対する敬意を忘れた新しさは危険なものです。 

どう書くか 

では、書くことの方はどうすればいいか。これについては、E. H. カーという歴史家が、『歴史とは何か』というこれまた名高い本で、面白いことを言っています。歴史家というのは、史料によって事実をまとめ上げてから、その後で、歴史書を書くものだと思われているけれど、そうではなく、「少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズして来て、自分で書き始めてしまうのです。……読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます」と、彼は言います。これは、何も歴史学に限った話ではありません。その証拠には、本居宣長という江戸時代の人も、学問を始める人のために書いた『うひ山ふみ』の中で、「ただ読むだけではどれだけ細心に読もうと思っても限界があるものだが、何か書きながら読めば、どんな本でもいろいろなことに気が付くようになるから、読む時は、何か書こうと心掛けるべきだ」という意味のことを言っています。カーの言うように、読むことと書くことは「実際には一つの過程の二つの部分」なのです。 

読むことと書くことは「一つの過程の二つの部分」ですから、読みながら書くだけでなく、書きながら読むこともできます。つまり、何かものを書いていて、書く必要の上から本を読む、ということです。いざ必要があって、自分の気持ちや周りの景色を書きたいけれど、適切な言葉が思い浮かばないというのでは、困ります。それで、何か書くとなると、インターネット上に書くというのが身近でしょうけれど、それは全然悪いわけではないにせよ、誰に見られているか分からないというので、意識が散漫になっていけません。日記や手紙をお勧めします。それでもいきなり書こうというと難しいと思いますので、お出かけするのがいい。文学者などの日記や手紙でも、面白いものは旅に出た時のものが多いです。ふらっと京都に行って、というのはできなくても、いつもよりちょっと遠くに遊びに行って、電車の中などで何か書くというのは、いい国語の訓練だと思います。 

知らないということを知ること 

繰り返し読むという心構えには、国語に限らず極めて重要なことが含まれていると思います。まず、良い本を繰り返し読むと、以前読んだときは分かったと思っていたところが、実は分かっていなかったのだと気付かされることが少なくありません。論語には、「これを知るをばこれを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」(為政第二)即ち、知っているものを知っている、知らないものを知らないと分かっていることが、知ることなのだ、とあります。知識を増やすよりも、自分自身が何を知り、何を知らないかを知ることの方が大事なのです。良い本を繰り返し読むことは、それに適した方法と言えます。また逆に、自分の理解や考えを書くときには、自分が何を知り、何を知らないかがはっきりするまで書くように心がけるといいでしょう。 

さらに、自分の知らないことを知らないと知ったとき、それを「知らないことを知っている」というだけの状態のままでいることは、実は、簡単なことではありません。私たちは、自分の知らないことを恐れるからです。それで、何か自分の知らないことがあると、それにとりあえずの「正解」をでっちあげて、知ったつもりで安心しようとするものです。知らないことを知らないと知るためには、知らないという不安の中に留まる忍耐が必要なのです。 

要約しましょう。 

国語を勉強するとは、「もの」、「こと」を知ること、言い換えれば、「私たちがどのような世の中を生きているか」を知ることである。 

そして、それに必要なのは実際の経験と、読み書きによる学習である。 

読み書きの学習には、良い本を読み、自分の理解や考えを書くのが良い。 

英語の勉強 

英語を勉強するとはどういうことか 

先ほど、「英語を勉強する目的の一つは、英語をすらすら読んだりぺらぺら話したりできるようになること」だと言いました。これは決してウソではありませんが、外国語が単なるコミュニケーションの手段なら、何ともつまらないと私は思います。ではそれ以外に何があるか。私の考えを申します。 

一つは、ものの見方。「今行くよ」というのを、英語では”I’m coming”といいます。「意外にも友人がいて驚いた」というのを、”I was surprised to find my friend unexpectedly(私は私の友人を意外にも発見して驚かされた)”といいます。この二つの例から、英語と日本語では、視点が違うことが分かります。日本語では、一人称の視点、普段生活している私たち自身の視点から語られているのに対して、英語では、一人称の「私」の外の視点から語られていて、そこでは「私」も登場人物の一人になっているのです。日本語では、私自身の視点から語られているのですから、「驚いた」といえば当然「私が」驚いたことになり、「友人」といえば「私の」友人、「友人がいた」と言えば、友人がいるのを「私が見た」ことになります。しかし英語では「私」は隠れた前提ではなくて登場人物ですから、「私」のことも説明してやる必要があるのです。このように、英語と日本語ではものの見方が違うので、英語を学ぶことは、新たなものの見方を学ぶことでもあるといえます。 

また一つには、英語を読むということに関して、メニューやウェブサイトを読むだけでなくて、英文学も含まれています。文学というのは、いわば、心のふるさとですから、それを新たに発見できるということは、この上ない喜びです。私などは、もともと詩歌には疎いのですが、英詩だけは比較的よく親しめるように思います。フランスの批評家イポリット・テーヌは、「私は、英詩に敵う詩はあるまいと思っている。こんなに心に強く鋭い印象を起こさせ、その言葉がこんなに含蓄に富む詩、内的なあり方についての動揺や飛躍をこんなに的確に表現し、こんなに器用にがっしりと心を掴まれる詩、一人一人の胸の奥深くに潜む琴線に触れて、こんなに壮大でこんなに染み入るような調べを奏でる詩は、どこにもあるまい」と言っています。 

英文の「もの」と「こと」 

「もの」と「こと」を知るということは、英文を読む時にも大切です。右に言ったような日本とは違う「もの」の見方もある一方で、人が死んだら悲しいとか、正直過ぎると疎まれるとか、屋内にいるなら雨に降られることはないとかいった「もの」は、国が変わろうが時代が変わろうが、変わることはありません。それから、英語でも、環境問題、国際問題、経済、科学技術など、よく出るテーマはあるので、こうした「こと」については、一通りのことは知っておくほうが便利でしょう。 

外国語を読むこと 

何はともあれ、英文を読まなければ英語の勉強は始まりません。高名な言語学者の関口存男は、初めてドイツ語を勉強する際、1000ページもあるドストエフスキーの『罪と罰』のドイツ語訳を、辞書も引かずにひたすら繰り返し読んだそうです。大学者に自分を並べるのは気恥ずかしいですが、私が高校生の時も、『英文標準問題精講』という、短文がたくさん載っている参考書を、ほとんど辞書を引かずに繰り返し読んだものです。そうすると、意味はさっぱり分からないけれどスッカリ覚えてしまった文句というのができてくる、それがたくさんできてくると、だんだんボンヤリ分かってくる。これは遠回りのようだが実はそうではなくて、先に述べた国語の勉強法と結局同じなのです。自殺幇助という言葉を辞書で引いても何も分からない。「高瀬舟」を読み、抽象的な議論を読んでいくうちにだんだん分かってくる。それと同じように、英単語や英文法も、単語帳や文法書で覚えただけでは使い物にならず、多くの実例に出会ううちにだんだん分かってくるのです。関口の逸話は極端で、単語帳や文法書もじょうずに使った方がいいのはもちろんですが、たくさんの実例と付き合わなければ何も分からないのは本当です。 

だんだん分かってくるという、その分かり方をもっと詳しく言うと、まず、その文章をつっかえることなくスラスラと音読できるくらいまで繰り返し読むのです。そうすると、全体の意味は分からなくても、リズムや、区切りや、繰り返し出てくる表現が頭に入ってきますし、少しずつ暗誦できる個所もできてくる。それから、辞書を引いたり、文法を調べたりして、意味に見当を付けます。その際、正しい訳を確認しても構いません。さらに繰り返し読んで、音読するのと同じテンポで意味が取れるようになれば、その文章での勉強は一応十分と言えます。その後も、少し時間が空いたらまた読んでみて、忘れているところはないか、確認すると良いでしょう。その調子で、次の文章、次の文章と読んでいけば、同じフレーズに違う文脈で何度も出くわすことになり、次第次第に分かってくるのです。友人と教室で顔を合わせるだけでなく、部活動や、飲食店や、家で会ううちに、その友人のことがだんだん分かってくるようなものです。 

書くこと 

読むことと書くことは「一つの過程の二つの部分」だ、というのも、国語の学びと共通しています。とはいえ、英作文をどんどんやれ、というわけではなく(やるに越したことはないですが)、英文を和訳するということも、「書く」ということに当ります。実際、和訳をするためには、原文を繰り返し読まなければなりませんし、そうすると、単語の正確な意味や、原文のどこが重要か、自分は原文のどこが分かっていないかといったことが分かってきます。和訳は、単に原文の意味を理解することではなくて、それ以上の意義を持つ営みなのです。関口は、「外国語が遅々としか読めなかったおかげ」で、「「そもそも人生というもの」が面白くなってきた」と言っているほどです。 

以上述べたこと、即ち量をこなすことと丁寧に訳をすることは、古文や漢文の勉強にも、また、数学の勉強(訳は計算と証明に当る)にもそのまま当てはまります。 

知らないということを知ること 

自分が何を知っていて何を知らないかを知ることが大切なのも、国語の場合と同じです。辞書に載っている意味を見て、その単語の意味が分かったと思ったり、ましてや、単語帳で覚えたからその単語を知っているなどと考えたりするのはもってのほかです。繰り返し顔を合わせて、もう滅多なことでは忘れないというところまできて、初めて何かが分かるのです。そこまで行かないような中途半端な勉強では、どれだけ時間を費やしても無駄です。渡辺照宏(しょうこう)『外国語の学び方』の中には、彼が最も尊敬する人の言葉として「外国語が難しいとよく人は言うが、多くの人たちは勉強を始める前にやめてしまう」という言葉があります。まだ何も分かっていないのに知っているような気になってしまうことは、何事につけても危険です。何事も始めが肝心だというのは、そういうことでしょう。 

学び方七則 

『外国語の学び方』は、私が随分感動させられた本ですが、この本で言われている「学び方」をご紹介しましょう。 

一、二十四時間主義。二十四時間その言語のことを考えるようにしろということです。例えば、朝起きて窓の外を見たら、「いい天気だな」と思う代わりに”It’s sunny today”と思うようにする。それでもし単語が分からなかったら辞書を引く。 

二、一日も休まない。記憶は日々薄れていくものですから、日課として、毎日欠かさず勉強すること。 

三、目標を決める。英語ができるようになるという目標は漠然としていて、役に立たない。どのくらいできるようになるかをはっきり決めておく。 

四、やさしいところをていねいに。基礎的な単語などはしっかり頭に入れておかなければ話になりません。逆に、難しい文章でも、基礎がしっかりしていればある程度食らいつけますから、いずれにしたって基礎が大切です。 

五、感情をこめて音読する。音読をすると、文の区切れや、単語のアクセントなど、黙読しているときには意識しないことが意識されます。さらに、文の意味に応じて感情をこめて読むと、なおよく理解でき、単語を覚えるにも役立つでしょう。 

六、暗記。関口や私のように、まとまった文章をスッカリ覚えてしまうというのは、「短い期間の内に効果をあげる方法」です。私は、高校生に英語を教えるときに、まずジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の冒頭を丸暗記して貰ったこともありますが、なかなか上手くいきました。今はどうか知りませんが、イギリス人は、聖書とシェイクスピアの名文句を暗記していて、自分で文章を書くときにもそれを利用するものですから、暗記は英語学習の正道ともいえるでしょう。 

七、辞書に親しむ。辞書の使い方で大切なことは、まず、こまめに引くこと、それから、何度も引くこと、そして、例文を読むことです。関口存男は、「本を引きながら辞書を読め」と言います。 

ここでも、要約しておきましょうか。 

たくさんの文章を繰り返し読むこと。 

丁寧に訳をすること。 

休まず勉強すること。 

数学の勉強 

数学を教えることの難しさ 

数学は定義とか定理とか、公式とか呼ばれる約束事と、問題さえあれば、本来それ以上、人が人に教えられることはないものです。例えば、三平方の定理とそれに関する問題さえあれば、ああでもないこうでもないと自分で考えていくうちに数学は分かっていくものです。国語や英語では、人から教わってよく分かる「こと」も、少なからずあるのですが。 

数学という「もの」 

国語や英語に関して言ってきたことを踏まえて言うと、数学には全くと言っていいほど「こと」はなくて、「もの」ばかりなのです。ごく大雑把に言って、「こと」は自分の外側の出来事、「もの」は自分の内側の働き、とこう分けることができるわけですが、数学の約束事は、全て私たちの内側にあります。自殺幇助をめぐってどのような議論があるかとか、明治維新や日露戦争や第二次大戦で何がどう変わったかということは、人に聞いたり本を読んだりしなければ決してわかりませんが、「平面上の二つの直線の関係は、一点で交わるか、平行か、重なるかの三つしかない」ということは、自分の手と紙と鉛筆があればわかるものです。逆に、このことはいくら人から丁寧に説明されても駄目で、自分の手で確かめてみなければ決してわからないのです。ですから、数学について人から教わる暇があるなら、黙って手を動かせと言いたい。 

数学とはそういうものでしかないと、私は信じます。約束事を学んで、問題をたくさん解いて、感覚が掴めてくる。それだけのものです。そしてその感覚というのは、実に面白いものです。 

「情緒」と「数覚」 

ここでも優れた人の意見を参照してみたい。岡潔という人は、多変数複素関数(当時の言い方では多変数解析函数)という、名前からして難しそうな分野の開拓者として世界的に高名な数学者ですが、『春宵十話』という有名な随筆の中で彼は、学問は頭でするものではなくて、「情緒が中心になっている」と言っています。小平邦彦は、日本人で初めてフィールズ賞(数学で最も権威ある賞)を与えられたほどの人ですが、『怠け数学者の記』という随筆の中で、数学は、理屈じゃなくて感覚でやるものだといって、それを「数覚」と呼んでいます。 

この二人の、「情緒」と「数覚」の話だけでも、数学は理詰めの抽象的な学問ではなくて、学問以前の、人間のありかたと深くかかわるものだということが分かると思います。岡は「数学の最もよい道連れは芸術である」とか、「人間性の本質に根ざしておればこそ、六千年も滅びないできたのだと知ってほしい」と言っています。数学が、人間の本質的な情緒や感覚に根ざしたものだとすれば、分かる問題をひたすら解いていくしか上達の道はないのです。 

また、数学は本来「情緒」ないし「感覚」でやるものですから、頭で理解しただけの状態、ましてや単に問題が解けるようになった状態を、「分かった」と考えてはいけません。「感覚」として分かるところまで練習を重ねなければならない。ここでも、自分が何を知り、何を知らないかを知ることが重要なのです。 

苦痛に耐えた先にある「玲瓏なる境地」 

分からない問題を何度も解くのは苦痛ですが、その苦痛のさきには、その苦痛に耐えるだけのよろこびがあります。齋藤正彦という数学者(この人は、大学初年用の教科書のベストセラーである『線型代数入門』を書いた人で、多くの大学生が彼のお世話になっています)は、「数学研究はそれ自身を目的とする《遊び》」であって、科学の研究や技術の発展に必要な道具であったり、論理的思考力を養うための道具であったり、また、もっともらしい統計に騙されないために必要な教養だったりするのは、飽くまで副産物だと言います。そうして、「数学は苦痛に耐えてもやるに値いする学問である(他の諸学問や芸術と比較するのではない)。実際、一見人工的に定められた数学的対象の奥深くに、《美しい》としか言いようのない調和の存在を見出すことは稀でない。これをかいまみたとき、高木貞治のことばを借りれば、人は《玲瓏ナル境地》に達するのだ」。

(高木貞治というのは、日本で初めて国際的な水準に到達した偉大な数学者で、私は個人的にも思い入れ深い。西田幾多郎が書いた高木の著書の書評を読んで、内容はさっぱり分からなかったが、数学に惹かれるようになっていったのである。ちなみに、《玲瓏なる境地》というのは、まず、19世紀前半に、それまで実数のみで考えられていた微分積分が複素数にまで拡大されるが、百年にわたるその後の研究によって、複素数の場合の方が、実数の場合よりも、ある点では単純であることが分かった、ということを指している。どういうことかお分かりだろうか。私にはわからない。「ある点では単純」、というのをもっと具体的に、高木の言葉を借りて言えば、<複素数の場合には微分可能と積分可能が同値である>ということを指すのだが、ここに「驚嘆すべき朗らかさ」があるということが分かるためには、微分積分の世界で大いに苦痛を味わう必要がある。) 

「数学は、苦痛に耐えてもやるに値いする学問である」ということを納得するためには、実際に苦痛に耐えてみなければならない。これは困ったことだけれど仕方がない。だから教える側は「いいから、やれ」と言うしかない。これは「(数学の面白さ楽しさを僕は知っているけれど、こればっかりはどうやったって伝えられないので、とにかくやってもらって自分で味わってもらうしかない。最初はつまらないだろうけれど、)いいから、やれ」という意味なのです。 

高校数学の区分、「微積分」、「図形」、「統計」 

さて、これまでは高校数学に限らない、数学全体の話をしてきましたが、高校数学の組織についても一言しておきましょう。高校数学全体はだいたい、「微分積分」、「図形」、「統計」という三つのアイデアについて学ぶものと言えます。学習指導要領を見ると、「科目の履修」として、以下のようにあります。 

「「数学Ⅰ」,「数学Ⅱ」,「数学Ⅲ」は,この順に履修することを原則としている。「数学A」は「数学Ⅰ」と並行履修,又は「数学Ⅰ」の履修の後の履修が原則である。「数学B」及び「数学C」は,「数学Ⅰ」の履修の後の履修が原則である。「数学B」と「数学C」の間に履修の順序は規定しておらず,生徒の特性や進路,学校の実態などに応じて,例えば,「数学B」と「数学C」を並行して履修することや「数学B」を履修せずに「数学C」を履修することなども可能である。」 

どういうことかというと、数学I、数学II、数学IIIはひとまとまりの内容、数学A、数学B、数学Cは別々の内容ということです。 

(おまけ)西田とカントに思いを馳せて、数学と自然科学について考える 

最後に、上で少しだけ触れた西田幾多郎の話を、どうしても難しくなってしまうのを承知で、もう少し詳しくしておきましょう。私個人の思い入れを語ることにもなりますが、それだけでなく、文系理系という分け方の弊害を、少し考えなおすきっかけになればと思います。 

まず、西田幾多郎とは何者か、という問いに答えておく必要があるでしょう。西田は、四十歳の頃に『善の研究』という哲学書を出版します。時は1911年、日露戦争の勝利を経た日本人が、自分たちはヨーロッパ諸国と同等の先進国だという自信を強めた頃です。この本は、西洋の哲学思想の高度な理解と東洋的な教養に基づいて、「いかに生くべきか」という問題を正面から模索したもので、その真摯な姿勢と、きびきびしたダイナミックな文体とによって、若者たちを魅了し、多くの哲学青年を、今なお生み続けています。さて、先に言及しておいた「高木博士の『近世数学史談』」という西田の書評には、以下のようにあります。 

「真理の体系というのは、何処までも、何処までも、複雑美妙なる世界であって、奥底が知れない、否、奥底がないといってよい。しかるにそれはただ複雑美妙というのでなく、隅の隅まで統一せられた世界である。何処までも何処までも統一した世界である。それ自身において統一した世界である。いわば生きた世界であるのである。」 

「複雑美妙なる世界」というのは、高木貞治の「玲瓏なる境地」というのと同じことを言っていると考えられます。ここで面白いのは、真理の体系といい、複雑美妙なる世界といい、奥底がないといい、それ自身において統一した世界といい、生きた世界といい、これらの言葉はみな数学の世界のことを言っているのですが、しかし同時に、この現実世界を哲学的に捉えようとする時に、西田が使う表現と、かなりの程度類似していることです。実際、体系、統一、生きた、といった言葉は、どれも西田哲学のキーワードです。「何処までも何処までも」とか「隅の隅まで」とか、「……世界である」の反復とか、こういう繰り返しの表現も、実に西田らしい。 

これがどういうことかというと、数学の世界に限らないこの現実の世界が「複雑美妙」で「生きた」世界であって、数学はその「複雑美妙」で「生きた」世界を探求する学問だということです。西田は、「いかに生くべきか」を考えるにはまずこの世界を知らなければならないと言っていますが、そうだとすれば、「いかに生くべきか」という最も重要な問題とも、数学は無関係ではないということです。実際、『善の研究』の次の著作である『自覚に於ける直観と反省』では、直線、三角形、複素数、実数、連続、極限、三角形といった数学的対象についての哲学的考察がかなりのページを占めており、数学嫌いの哲学青年を苦しめることになりますが、西田にとっては数学の世界と私たちの生きる世界とはそれだけ密接な関係を持っていたのです。 

多くの肉親、中でも六歳だった娘を亡くして悲哀に沈んだ西田が、「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言ったこと哲学科では有名ですが、深い人生の悲哀から出発して「いかに生くべきか」を問うていく途上で、世界の「複雑美妙」に讃嘆するというのは興味深いことです。 

また例えば歴史上最も重要な哲学者の一人であるカントの著書『判断力批判』は第一部「美的判断力の批判」と第二部「目的論的判断力の批判」の二つに分かれていますが、これらはおおよそ「美」と「自然」について論じたものです。カントにとって、芸術と自然とは、いわば「生きた統一」を持っているという点で同じなので、自然を研究する自然科学は、この世界の美を研究するも同じことになります。そしてそれは、カントによれば、私たちの意志とは無関係に人間を振り回すこの無慈悲な事実の世界と、私たちの意志や人格といった価値の世界とを結びつけるものなのです。これは西田が、悲哀に満ちた人生を「いかに生くべきか」という問いの途上で、図らずも「複雑美妙なる世界」という言葉を用いたのと似ています。 

要するに、数学にせよ自然科学にせよ、この世界の「複雑美妙」を探求するものと言えます。もちろん、単に「美妙」というのでは、やっぱりそれは「遊び」に過ぎないということになる。この世界には、醜悪なものもたくさんある。数学や自然科学の世界はきれいすぎて、そういうものを取り上げることができないのかもしれない。飢餓とか虐待は、数学の世界には入れないのでしょう。しかし、この醜悪で無情な世界をよくよく見つめると、醜悪で無情なままで、しかも美しいというような瞬間が訪れることはある。だから数学や自然科学はそれだけでは足りない、ただの「遊び」だ、というようなところがあるけれども、真理の要求として、私たちの生きるこの世界と重ねて見た時には、ただの「遊び」ではない、何かもっと畏るべきものとして迫って来るのではないかと思います。 

これを要約するなら、 

「情緒」や「感覚」によって自分の内側で把握できるようになるまで、繰り返し問題を解け、 

ということになるでしょう。 

以上、国語、英語、数学の勉強に関して、私の考えを縷々述べてきましたが、その全てに共通することは、 

どの科目も単なる手段ではなくて、「私たちはどのような世の中を生きているか」を知るために学ぶのだということ、 

どんなものでも、やっていくうちにだんだん分かっていくのだということ、 

そのためには量をこなさなければならないこと、 

そして、量をこなすためにも、またそれが無駄にならないためにも、休まずやらなければならないこと、 

その際、自分が何を知っていて何を知らないかを意識しておくべきこと、 

と言えるでしょう。 

参照 

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』斎藤忍随訳、岩波書店、一九六〇年。 
E. H. カー『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波書店、一九六二年。 
本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』村岡典嗣校訂、岩波書店、一九三四年。 
『論語』金谷治訳注、岩波書店、一九九九年。 
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波書店、二〇〇〇年。 
H. Taine: Notes sur l’ angleterre, quatrième édition, 1874. 
『齋藤勇著作集 第二巻』研究社、昭和五二年。 
『ドイツ語「関口文法」へのいざない 第一巻 関口存男の言葉』佐藤清昭編・解説、三修社、二〇二一年。 
渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、一九六二年。 
岡潔『日本のこころ』講談社、昭和四十六年(これは古い本で、角川ソフィア文庫の『春宵十話』は今でも手に入る)。 
小平邦彦『怠け数学者の記』岩波書店、二〇〇〇年。 
齋藤正彦『数のコスモロジー』筑摩書房、2007年。
西田幾多郎「高木博士の『近世数学史談』」(『続思索と体験 『続思索と体験』以後』岩波書店、1980年)
『西田幾多郎全集 第六巻』岩波書店、1948年

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