ラクダと針の穴

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

ちょっとした雑談の流れから、宗教のことに話が及びました。
特に相手が若者だと、「神などいるのか」とか「神なんか信じないよ」と切り出されることが多いです。

哲学についてもちょっと似たことがあります。
たまたま話が哲学に及ぶと、「死」とか「自由」についてなんか考えたこともないし、今後も考えないだろう、と口火を切る人はいるものです。

そういう時にどう返事をするかというと、「それならそれで全く構わない」といいます。

たまたま宗教や哲学に触れたものが、そうでないものに対して自分を何か立派なもののように勘違いして、他を導こうとすることが愚かであるのと同様、たまたま宗教や哲学に触れなかったものが、宗教や哲学の世界から自分が拒絶されているかのように引け目を感じる必要は全くありません。

そういうものに触れる人は、いわば内的な衝動に動かされて触れるもので、そういう、自分の中に感受するものを持っていない状態で何かを知ろうとしてもあまり得るものはないでしょう。

内的な衝動は、まさしく内的であるがゆえに当人にはいかんともしがたく、ないときはなく、あるときはあるものです。

理由もなく、ふと顔を出すこともあるでしょう。

あるいは自分の不遇、不幸を嘆くときに、「どうして...!」という叫びとともに芽生えることもあるでしょう。

それで、「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」という聖書の言葉を思い出しました。

それはごく良識的に考えれば、財産を持っていれば、それだけ俗世への執着は募り、しがらみは増えるので、俗世を超えたものを思ったり、隣人愛に生きたりすることはほとんど不可能になるという意味でしょう。

しかし上のように考えてみると、そもそも金をもって不自由の少ない、さらに言えば忙しい生活をしていれば、自分の存在そのものを問う機会が訪れることは考えにくいものです。

金持ちは天国に入ることだけでなく、天国に入りたいと思うことも難しいのかもしれません。

あまりに皮相な解釈ですが...。

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