戦後文学の違和感
愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。
ただ、気になるのは(じつのところ当初書こうと思っていたのはこちらの方で、前置きばかりが長くなってしまいました)、大正以後、そういう真摯な文藝はどこへ行ったのか、という点です。
小林や河上は戦後も活動しますし、彼らの衣鉢を継ぐかのように、保田與重郎、亀井勝一郎、福田恆存といった優れた批評家は活動を続けます。
では小説はどうか。
私も、いくつかは戦後作家の作品を読み、その中にはなるほどと思うものも確かにありました。
しかし、それらにしても、スケールが小さくなっているような気がするのです。
明治・大正期の作家の書くものは、たとえ内容がつまらなくても、そこで描かれている人生と人生態度は等身大のもので、描かれた人生と苦悩は、そのまま私自身の人生と苦悩として受け取ることに何の障害も感じないことがほとんどです。
誤解を恐れずに言えば、彼らの作品は切実で、素直で、身に迫るものです。
戦後作家のものを読むと、そこに何らかの障壁が現れるように思うのです。
それとともに思うのが、戦後の評論が、そういう障壁を抱えたまま対話をしていて、そのため不毛な議論に陥ったり、そもそも議論が成り立たなかったり、割合よい場合でも障壁がどこにあるのかを突き止めておしまいになったりすることが多いのではないか、と、これも単なる印象論を出ませんが。
文学や文芸評論が今のような見るも無慚な惨状を呈しているのも、商業主義やスマホのせいばかりではなくて、そういうところに内的な原因があったのではないかという気がします。
この障壁の正体を知ることは、戦後という時代を考えるにおいて重要なことのような気がしています。
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