4月29日: 古典の話、あるいは分かりにくいものの効用について

古文の教材をあれこれ。ようやく第一回分ができたので、この調子でどんどんやる。他の科目などもやらなければ。

振替で来た中一の子が、ネグリの『構成的権力』を借りていく。

中学校で徒然草を教えるのに、定番になっているのが、第五十二段の「仁和寺にある法師」の話と、第九十二段の「ある人、弓射ることを習うに」の話のようだ。前者は石清水八幡宮に参拝しに行った法師が、手前にある末社を本宮と勘違いして帰った話で、「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」と括っている。後者は、弓の先生が「二本矢を持つと、二つ目をあてにして気が緩むから、初心者は一本で持て」と言ったという話で、仏道修行でも後のことをあてにしないで今一心に修行しなければならないが、それが難しいのだ、と言っている。

第五十二段の趣旨は、何事にも先達はあった方がよいということで、第九十二段は、あとに期待して怠けてはならないということである、と一応言える。しかしこう考えると全然面白くない。それに、中学生がこうした教訓に耳を傾けられるとも思わない。

恐らく、この二段が選ばれていることの主たる理由は、これらが、事実内容を理解しやすいからであろう。「仁和寺にある法師」が何をし、それがどういう点で滑稽なのか、弓の先生が何を言い、兼好がそれをどう敷衍しているか、といったことは、中学生に考えさせるのにふさわしい。しかし、説教臭い印象は、いかんともしがたい。

思い出すのは、母校を訪問したときのこと。知り合いの教員から、掲示用の黒板の空いたところに、何か書くよう言われ、論語からいくつか文句を並べてみた。すると不思議にも、実際に論語から受ける印象とはかなり違う、説教臭い印象の文句になった。

微妙な陰翳を取り除いて、伝わりやすいところだけ抄出すると、全然違う、つまらないものになってしまう。

どうにかして、陰翳を織り交ぜることはできないものだろうか。

今日は『民法』を読まずに寝てしまった。


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