この国の教育の現状

高校の学習指導要領解説の第一章は、どの科目も「総説」として、同じ文章が載っている。それは次のように始まる。

「今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。また,急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては,一人一人が持続可能な社会の担い手として,その多様性を原動力とし,質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくことが期待される。」

私は、これを読んで驚いた。流行語が、その内実への考慮もなしにただ並べ立てられている。この文章からは、教育という営みに対面した人間の苦悩は全くない。言い訳めいた、うその言葉である。

言葉が安い。この国の教育の方針を発表する言葉が、こんなにも安い。教育政策というのは、こうも言い訳が必要なのか。こうも業界(何の業界かはつゆ知らないが)の顔色を窺わなければならないのか。

教育の基本は昔から、読み書きそろばんである。良い指導者が、読み書きそろばんを教える、それだけで十分であり、それ以上を求めることはむしろ逆効果になることが多いであろう。要するに、教育のあるべき姿は、そうやすやすと変わるものであってはならない。しかし、いつの時代にも、様々な問題、不満、不安、懸念等々があるもので、その責任の幾分かが教育に転嫁されるものである。すると、「教育」の側は、言い訳を迫られる。いわく、時代の変化に対応します。これまでにない価値を実現します。そうして「教育」が教育を裏切ることになる。

物江潤が『入試改革はなぜ狂って見えるか』で主張するところによれば、教育基本法第一条に規定されている「人格の完成」という言葉について、定まった解釈は存在しないという。この国の行政は、教育のあり方について、きわめて及び腰である。

どうやら、この国の行政と立法は、教育について積極的な発言権を持っていないらしい。いったいどのような権力の均衡のもとでこのような状態が現出しているのか、実に興味がある。

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