本を読むのは難しい
愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。
里芋を剥くときの注意
朝から里芋を煮ました。
里芋の皮は、これまで包丁で剥いていたのですが、たわしでも剥けると知りました。
たわしで里芋を擦っていると、少しずつ皮が捲れていきます。
その皮は、たわしの毛が跳ね返る勢いに乗って、そこら中に散乱します。
シンクの中で作業していれば、掃除の手間はそうかかりません。
ただ、腕に皮がかかって、かゆくなるのには困りました。
ちょうどシャワー前だったので、すぐにシャワーを浴びればなんということはありませんでした。
里芋をたわしで剥くときは、お気を付けください。
Ars longa vita bravis
『イギリス文学史』という名著の序文で、著者の齋藤勇は以下のように言います。
たとい私が文学史家として生涯をささげるつもりであると仮定しても、私は上下一千年間各時代の作品合わせて幾万の書を読破することはなし得ない。(よし万一それが出来ても、私はそれを好まない。)その中の代表的作品をかりに千部として、それを精読することだけでも微力な私には出来そうもない。しかのみならず Dr Johnson が 'No, sir, do you read books through?' と反問したように、5ページか6ページを読んで一巻の著作の良否を判断しうるほど眼光紙背に徹することは、私のような凡人の企て及ぶところではない。
『齋藤勇著作集 第二巻』pp. xiii-xiv
単に万巻の書を読破することが不可能であるというだけでなく、できたとしてもしたくはないし、「代表的作品」をすべて読むことも不可能である、といい、それから、一冊始めから終わりまで精読しなければその本について判断はできないという、まことに良識的な言葉です。
ともすれば手もとに本が積みあがってしまいがちであり、また精読した本などというのは一冊もない(これは国民教養というものを失った現代人全体のかなしみでしょう)私は、たびたびこの言葉を思い出します。
先日、本棚に並んでいる『波多野精一全集』を見ていて、その代表作である『時と永遠』だけでも読んでおきたいと思って抜いてきました。
しかし今日、アウグスティヌスについて調べていて、やはり、『告白』と『神の国』だけは、と思いました。
となるとまずは『告白』を読まなければならないわけで、『神の国』はそのあと、それもいつのことやらわかりません。
そもそもそれ以前に並んでいる本もあるのです。
そうなると『時と永遠』などはさらに先になるわけで、今は片づけるほかはない。
本を読むのは難しい
以前、大学を一年休学して、授業を受けない代わりにこの一年でどれだけの本が読めるかと思い、哲学と文学の本を毎日読んでいました。
覚えているのはダンテの『神曲』を翻訳で読んで感動したが、「天国篇」は投げ出してしまったこと、ゲーテの『ファウスト』の第二部が読めなかったこと、シェイクスピアの『ハムレット』だけはどうにか読んだこと、フローベールの『ボヴァリー夫人』はかなり最初で投げ出してしまったこと、カントの『純粋理性批判』もヘーゲルの『精神現象学』もやはり読めなかったこと。
要するに、何一つまともには読めなかったということでした。
これは私には良い体験でした。
本を読むということがいかに難しいことか、大学に入って6年もして、いまさらのように気が付いたのです。
もちろん、本には時期というものがあります。
それは誰にも予見できません。
私は、時間に余裕があった時には読めなかった『純粋理性批判』が、大学院を卒業して働き始めてから読めるようになりました。
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