「学習指導要領」のポリティクス

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

学習指導要領の読みにくさ

昨日引用した、「この国の教育の現状」は、学習指導要領の「総説」を読んで、思ったことを書いたものです。

今、また別のことに気づきました。

改めて、ここでも学習指導要領「総説」の冒頭を引用します。

今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。また,急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては,一人一人が持続可能な社会の担い手として,その多様性を原動力とし,質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくことが期待される。

数か月前に読んだ時は、この文章の読みにくさと不自然さ、言い換えれば人工的な感じを強く受けました。
なかば以上はこの読みにくさと不快な感じの正体を見極めたかったのが、もとの動機です。

これは書き手の頭でこなされていない文章だ。
自分で練り上げた考え、少なくとも咀嚼した考えを書き出したならこうも人工的にはなるまい。
そう思ったので、これは様々な権威や権力に忖度して、どうにかお叱りを受けないで済むようにとの配慮で書き上げたものだろうと判断しました。
ごつごつした特殊な用語が頻出することからも、そうではないかと思われました。

もう一つの可能性

それから、何度か文部科学省の文章を目にする機会があり、それでまた思ったのです。

これは、もしかしたら、書き手は本心で書いているのかもしれない、と。

だとすると、私が思っていたような、あちらこちらの顔色を窺って、忖度に忖度を重ねた結果読みにくくなった、というようなことではなくて、別のところに人工性があったことになります。

つまり、書き手の心です。

この人工性、この読みにくさは、往年のマルクス主義文献のそれと通ずるものがあります。

今ちょっと手もとにマルクス主義文献がないので、細見和之『フランクフルト学派』から、ジョルジュ・ルカーチ『歴史と階級意識』からの引用を又引きしてみます。

とりわけ労働者は、自分自身を商品として意識するときにのみ、自分の社会的存在を意識することができる。労働者の直接的存在は労働者を──すでに示したように──生産過程内部での純粋な単純な客体という位置につける。だが、この直接性が多面的な媒介の結果であることが証明され、この直接性の前提となるものが全て明白になり始めるとともに、商品構造の物神的形態が崩壊し始める。

細見さんはもう少し長く引いていますが、こんなところで十分でしょう。

ルカーチの文章はいささか極端ですが、書き手の内部では自然な図式が見えているようだが、読み手からはそれが見えないという例として、際立っています。
読み手は、彼の言うことを理解しようとすれば、まず彼の見ているのと同じ眼鏡で同じ景色を見て、その景色を手掛かりにして読まなければなりません。
(ちなみに細見さんは、ルカーチのこの著作について、そこでは「労働者」「プロレタリアート」という言葉が、生身の労働者やプロレタリアートを感じ取らせない、抽象的な概念としてしか使われていないと評しています。)

ここに出てくるような不自然な特殊用語は、書き手にとっては日常的な言葉になってしまっていて、すでに説明不要なほど自明なものでした。
学習指導要領の文章にも同じことが言えるのではないでしょうか。

業界用語の権力

「生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。」というのは、一応はうなずけるようですが、原因として挙げられている「生産年齢人口の減少、グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等」というのは、読み手によってとらえ方がきわめて多様になりえます。
これを読んでうなずけるのは、各々がうなずけるような解釈をできるような曖昧な書き方だからです。
これは何も言っていないようなものです。

「予測が困難な時代」ということばが、まさに私がこの記事を書こうと思ったきっかけなのですが、これは文部科学省の文書で多用されています。

これについて、以前読んだ時は、「予測が困難な時代」ってのは何だ!まるでこれまではそうでなかったかのように。かつて一度でも予測が困難でなかった時代があったろうか!と思ったものでした。

しかし多くの文部科学省文書で用いられていることを考えると、文部省の役人にとっては、「予測が困難な時代」という言葉についての判明な了解が共有されているのかもしれません。ちょうど、マルクス主義者にとって「商品構造の物神的形態」が自明のものであるように。

その後ろに出てくる「成熟社会」、「持続可能な社会」、「多様性」、「原動力」、「質的な豊かさ」、「新たな価値」というめくるめくような了解しがたい言葉の羅列も、文部科学省の人々にとっては、それが指すものも、その価値評価も、この上なくはっきりした言葉なのかもしれません。

しかしそうだとすると、現在の文部科学省は、ひと頃の(?)マルクス主義のような独善性を持ってしまっていることになります。

少なくとも、こうした業界用語についての理解と価値評価を共有しない者を、文部科学省は締め出して、「話の分かる」相手だけに教育をゆだねようとしています。

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