ベーコンのエッセイが

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

私は中学のころから哲学に興味を持ち始めました。
ギリシアから有名なものを読もうと思って、プラトン、アリストテレスと読んでから、中世を飛ばしてフランシス・ベーコンを読みました。

『学問の進歩』や『ノヴム・オルガヌム』も探して読んでみたような気がしますが、おもしろかったのは『エッセイ』です。
中公クラシックスというシリーズから出ていたのを買って読みました。
セネカやウェルギリウスやキケロなど、古典をいろいろ引用していたのを覚えています。
ルネサンスの人々にとっては、古典の教養は必須のものだったのですね。

読み返してみたくなりましたが、見つかりません。
どこかにやってしまったか、誰かにやってしまったか…。
書店には在庫がないようで、古本でもやや高騰しています。

私にとっては、中学生のころからの馴染みでもあり、当然あるもののように思っていました。
それが、手許にもない。書店にもない。

ベーコンのエッセイは読みにくいところもあるものの、おもしろいものです。

読みにくい、というので、思い出しましたが、夏目漱石の『三四郎』で、「ベーコンの論文集」が出てきます。
たぶん、『エッセイ』のことだと思われます。

 三四郎はこの男に見られた時、なんとなくきまりが悪かった。本でも読んで気をまぎらかそうと思って、鞄をあけてみると、昨夜の西洋手拭が、上のところにぎっしり詰まっている。そいつをそばへかき寄せて、底のほうから、手にさわったやつをなんでもかまわず引き出すと、読んでもわからないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒なくらい薄っぺらな粗末な仮綴かりとじである。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れそくなったから、片づけるついでに提鞄さげかばんの底へ、ほかの二、三冊といっしょにほうり込んでおいたのが、運悪く当選したのである。三四郎はベーコンの二十三ページを開いた。他の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどはむろん読む気にならない。けれども三四郎はうやうやしく二十三ページを開いて、万遍まんべんなくページ全体を見回していた。三四郎は二十三ページの前で一応昨夜のおさらいをする気である。
 元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。――
 三四郎はここまで来て、さらにしょげてしまった。どこの馬の骨だかわからない者に、頭の上がらないくらいどやされたような気がした。ベーコンの二十三ページに対しても、はなはだ申し訳がないくらいに感じた。

二十三年と二十三ページを関連させるという、他愛もない漱石の茶目っ気があります。
本の外観のことと、ページ数が書いてあるから、マニアなら何年に出版されたもので23ページには何が書いていて、物語とどんな関係があるか、と間メディア的考察を行いたくなるところです。
(調べてはいませんが、そういう論文はきっとあると思います。)

三四郎は読めなかったようですが、たぶん英語だったでしょう。
日本語でならそこまでではありません。
おもしろいものです。

読めるようになってほしいし、多くの人に読んでほしいものです。

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