『破戒』の改訂と初版復原(完結)

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

昨日の続きです。

日本はどこか

それから、外国人に対する劣等感という問題も、指摘されていました。
明治に入ってから、それまでは大切にされてきた漢籍が二束三文で売り飛ばされたり、日本の文化を伝える浮世絵なども散逸したりと、維新以来の日本は卑屈になり、自らを見る機会を失っています。
しかも、それ以来「日本」とか「國體」という名のもとに大音声で喧伝されたものもまた、仏教も儒教も庶民文化も民間信仰も理解することなしに作られた「日本」でした。
西洋か、作られた「日本」か、いまだにこの国ではその両翼が強い力を持っています。

もちろんそれにとどまらない人も決して少なくありません。
イギリス人の評価を鵜吞みにしないで自分の評価に自信を持てと『文学評論』で説いた夏目漱石。
日本人に、日本のことを知ってもらわなければならないという使命感で仕事をつづけた柳田國男。
西洋語文法を前提にした日本文法研究を批判して、日本の文法研究と日本語の文法を探求した時枝誠記。
かなづかいの変更政策を、国語の無理解に基づくものとして批判した福田恆存。
日本の心とキリスト教の精神をつなごうとした遠藤周作。
以上は、単に私の読書遍歴から縁のあった人々を挙げたにすぎません。
他にもたくさんいるでしょう。
これらの人々のことを、私たちは敬意とともに記憶しておかなければなりません。

日本はどこへ

外国人に対する劣等感、翻って、日本の日本としての自主性のなさは、今でも憂うべき弊をもたらしています。
世界大学ランキングを過剰に気にする教育・学術政策。
古文・漢文の軽視と英語教育の重視。
欧米の目線ばかりで語られる国際情勢。
やはり朝鮮人への敵意はしずまることなく、愛すべき祖国の、愛するならば黙殺できるはずがない罪過は口端に上らない。
天皇制を守るといいながら天皇制の実態には目を向けない。
外国の目をしきりに気にするにもかかわらずキリスト教を理解しようともしない。
「自分は悪いことをした。それを認めて精一杯生きる」というのが自分を愛することなのか、それとも「自分は何も悪いことなどしていない」と言い張り続けることが自分を愛することなのか、考えようともしない。

明治始まって以来、この国はあまり変わっていないようです。
あるいはもっと以前からかもしれませんが、無学な私は知りません。
長い間変わらない、酷い構造が、変わると信じることは、本当に、容易なことではありません。
しかし、それを信じないとしたら……?
今は今を生きねばなりません。

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