名文ばかりの英語教材

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

旺文社の『英文標準問題精講』というロングセラー参考書があります。

載っているのは名高い文学者の書いたものばかりで、文章にいちいち味があり、中身もおもしろいので、私はこればかり読んでいました。

しかし、名文ばかりの英語教材は、必ずしもいいものではありません。

結晶

話は少し飛びますが、私はよく「文章が読みにくい」と言われてきました。いわゆる悪文家です。

悪文と言っても、書く内容が散らかっているとか、書かなくてもいい余計なことを書いているとかいうことはなかったと思っています。

私の悪文は、極力余計なことを書かないで済まそうとすることによるものです。

たとえて言えば、目の前にある彫像をじっくりと眺めまわした後で、最もその彫像の姿をよく伝える画角を一つだけ選んで写真を撮るように、たくさん下書きを書いた後で、最も大事だと思う部分だけを残すという書き方をしていました。

密度というものは質量と体積の比ですが、最も少ない体積の文章で、最も大きな質量の内容を伝えることが、私にとって必要だったのです。

しかしそのとき私以外の読者にとっては必ず悪文になります。というのも、私自身によくわかる言葉が、私以外にもよくわかるということはめったにないからです。

歌のない説明

特に学問の世界では、文章は極力、読者を説得するように丁寧に語ることが求められます。

法廷弁論のように、結論を先に示しておいて、なぜそう言えるのかを、証拠を上げながら立証していくことが必要です。

私には、そのスタイルが信用できませんでした。

どうしても読者を法廷から連れ出して、一緒に現場検証をしなければ気が済まなかったのです。

私は、現場に立ってその感慨を語ることはできても、現場の詳細を他人に説明することはできなかったのです。

哲学という徹底的批判、出来合いのもの全てを解体しながら常に新しく何かを生み出すという営みを遂行しながら、そのような説得的な語りを作るということは、ほとんど不可能のように思います。

腹の底の本音を吐き出している人を前にして、「この人の言いたいことはつまりこういうことだ」と分かりやすい解説をすることなどできるものでしょうか。

裸の言葉に触れたなら、裸の言葉を伝えずにはいられません。

微笑む人にあったら微笑み、泣く人がいれば泣くものです。微笑や涙を解説することなど不可能です。

歌

そういうわけで、自分の心から出た感慨の他に、分かりやすい説明を付け加えるということは、私にはできないのです。

「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞなれりける」

うたはすべて、こころから湧き出したものでしょう。

そしてうたでないものは、わざわざ人に聞かせるには当たらないでしょう。

英語教材の話をしようと思っていたのに、話が随分逸れました。
英語教材のことはまた明日です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です