意思能力を持たない者が行った契約は無効にできる。
これは、認知症患者や前後不覚の状態にあるものが交わした不利な契約を、後で無効にするために作られた制度である。意思能力とは、「自らの行為の結果を判断する能力」とされる。その契約をしたらどうなるかが分かっていない人がした契約は無効にできるということだ。7歳程度の知的能力に相当するとされている。なるほど7歳の子供は、友達や親との間で、意味のある約束をする能力を持つであろう。
明らかに、「自らの行為の結果」というのは、その行為の直接的な結果のことである。バタフライエフェクトを予測できるものはいない。しかもその行為というのは、かなりありふれた行為で、結果の予測が容易でなければならない。まったく内容物が予測できない箱を開ける行為に関して、「自らの行為の結果を判断する能力」を持つ者はいない。当然、「まったく中身のわからない箱を開ける」という内容の契約は考えられないから、それでいいわけだ。ほとんどの契約は、財物を交換ないし贈与するとか、労役を提供するとか、「自らの行為の結果」がさしあたり判断しやすいものである。
しかし実際のところ、自分の行為の間接的な結果は、自分にとって無視できるものでない。「あの時に○○しておけば」とか「○○したのがまさか役に立つとは」といった経験は、決して少数の人のものではあるまい。また、結果の不可測性についても、「中身のわからない箱」のような、客観的に予測不可能な場合はめったにないとしても、よく知らない、十分に考えていない、切迫した精神状態である、といった、主観的な条件によって結果の判断を誤ることは稀でないだろう。否むしろ、こうしたネガティブな主観的条件から自由でいることは、人間である限り不可能であろう。
要するに、ラディカルに考えれば、自分の行為の結果というものは、極めて限定的にしかわからない。民法は、人間の社会的な活動を円滑にすることを目的としているのだから、この「極めて限定的」な範囲内のみを前提としていればよいわけだが、私たち自身は、もっと広く考えなければならない。民法では、自分の行為の結果が判断できない人の行なった行為は、その当人に不当に不利な結果をもたらすかもしれないから、無効にできる。では、ラディカルに考えた場合、私たちはあらゆる行為を無効にできるといえるのではないか。
実際には、間接的な結果や主観的な条件をもとに、自分には「自らの行為の結果を判断する能力」がなかったと主張することは困難であるし、何より誰も納得しない。
しかし例えば、高知能な宇宙人がいて、彼らは我々の何万倍もの情報を処理できて、より広くより遠い結果まで容易に見通せるとしたら、彼らの目には、我々が意思無能力者のように映るのではないか。
良かれと思って他者を排除し、争いを引き起こし、また、動物や環境に対して不当な扱いをし、自らの文化をやせ細らせるのなど、彼らから見れば正気とは思えまい。
我々には、何かをしたいと本当に思うことはできないのである。自分が何を望んでいて、今何をしているのか、分からないまま生き続けているのが我々である。
意思無能力の法理を、法の世界の垣根を越えて押し広めてしまえば、そもそも有効な行為などありえないということになる。
そもそも私たちが自分のことを分かっていて、自分の行為の責任を引き受けることができるというのは、社会生活を成立させるためのフィクションである。自由意志を持った正気の個人による共同体という思想は、フィクションでなくて何であろう。このフィクション自体のうちに、意思無能力法理という、このフィクションの裏側とつながっているような要素があるのは面白い。

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