日本近代文学は明治に始まり明治に終わった

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

日本近代文学は明治に始まり明治に終わった。
おそらく言い過ぎですが、私一人はそのような感じを持っています。

終わったというのは、読むに値する文学が出なくなったという意味ではなくて、底をついたという意味です。

日本近代文学の宿命というか、本質というか、そういうものがどうしようもなくあらわになってしまった。
文学を一つの冒険とすれば、その冒険は早くも終わりを告げたのです。

おもしろいのは、「批評家」と呼ばれる人々が狭義の文学から距離を取るようになることです。

正宗白鳥は死ぬまで小説を読み続け、書き続けますが、小説そのものは人生において価値があるわけではないと言っています。
小林秀雄は友人、青山二郎の影響もあって、すでに戦前から骨董に親しむようになり、骨董、絵画、音楽、そして本居宣長を相手取るようになります。
河上徹太郎はもともと音楽の素養が深く、音楽論を書いていましたが、戦後には鷗外の『渋江抽斎』のような「硬文学」の可能性を説くようになります。

晩年の小林が宣長に行きついたのは象徴的です。
宣長という人物は、和歌や源氏物語を高く評価し、優れた評論を書いたり、古事記の文字をていねいに読み解いたりしていますが、それら文学における表現そのものには大きな価値を見なかった人です。彼がそうした文学を評価するのは、私たちがそれらによって優れたこころに触れることができるからです。

宣長の源氏や古事記に接する様子は、敬虔なクリスチャンが聖書に接するのに似ているように私は思います。
キリスト教徒にとって聖書は、少なくとも第一義的には文学ではなくて、神の言葉が示されているものです。
キリスト教徒は、聖書から神の言葉を受け取り、自らの生き方を見直し、心の糧とすることができるからこそ、聖書を尊びます。
宣長が源氏や古事記を尊ぶのも同じです。私たちが本来持っていたはずの「もののあはれ」、「真心」を学びなおすためにそれらを読むのであって、書き手による表現という次元は捨象されます。
表現者が、社会に対して自己を披瀝するという意味での芸術は、宣長にとって余計なことだったでしょう。

そうして芸術作品を通して受け取ることができるこころが残って、作品そのものはどこかへ行ってしまうようなところがあるような気がします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です