自由を守れ!伝統を守れ!

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

啓蒙と自由の話

私はある時期まで、みんな賢くなって自由になるべきだと強く思っていました。
権威や権力によって個人の自由や素直な感情の発露が押さえつけられることは悲しいことです。
それを避けるには、誰もが、つまり抑圧されている側も、抑圧している側も、自分の置かれている状況をはっきりと認識しなければなりません。
今、この状況に対して、自分たち一人一人が責任を負っているという自覚のもとで、自分の問題としてなんでも議論しなければなりません。

この立場を、私は捨てたつもりはありません。
もっと腹蔵なく、党派性や感情論にも囚われず、自由にみんなのことが議論できる社会を夢見るのは楽しいことです。
しかし今私は、誰もが自分のこと、社会のことを知って、考えて、議論するという未来を、10年後のこととして構想するとしたら、それは相当な危険をはらむと思います。
そこで、例えばその未来を100年後のこととして想像することができるなら、それまでの100年のことを考えることも、同じくらい重要なのです。

また別の自由の話

それまでの間、自己理解と自己批判とをする機会に恵まれない人、社会の問題について自由に議論を交わすことを好まない人は少なくないことになります。
しかし人類には、長年の知恵があります。
それが文化であり、伝統であり、習慣です。
それらは、人々がいちいち自分の責任の下で自分の理性を働かせて判断をするというコストを省いてきました。
私たちは、さしあたり決して馬鹿にできない期間、文化、伝統を尊重し、文化、伝統に依存して生きていかなければなりません。

冒頭で「賢く自由に」と言いましたが、慣習に縛られないことが自由とは限りません。
例えば福田恆存は『人間・この劇的なるもの』の中で、自分の「役」を見つけ、その「役」を演じ切ることが幸せなのだ、と言っています。
それができるなら、自分の「役」を演じきれる人は本当に自由な人です。

と、ここまでは、理屈の話。
私は以上のように考え、またそう主張してきました。
それにもかかわらず、私自身が文化、伝統に無心に従うということは、どうしてもできませんでした。
冠婚葬祭に参加したり、ややかしこまった場ですることになっている振る舞いをしたりすることはなるべく避けたいものです。
できないというわけではないし、嫌いだというわけでもありません。
自分と周囲を欺いているような後ろめたさを感じます。

要するに、自分の主張と自分自身の心とが裏腹でした。

伝統を作ろう

私が世間の風習や伝統に対して感じるあのうしろめたさ、あのよそよそしさは、ラフマニノフの「徹夜禱」(を挙げるとラフマニノフに申し訳がないのですが、私はそう聞いたというだけでラフマニノフは決して偽善者などではないにちがいありません)に感じたよそよそしさと近いのではないか。

これは確かにいいものだ、しかし私のものではない。というような。
そういう古き良き伝統の力へとさかのぼって、自分のものとして見出すような道を、私たちは失ってしまった。それが私の実感です。
古き良き伝統を愛し、畏敬し、その一部なりとも我がものとなして、創出しなおすという仕事をしたのが、ブルックナーやフォーレ、またシルヴェストロフです。
ラフマニノフもまた、実際にはその一人なのだと思います。

私たちは、伝統を再創出しなければなりません。

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