4月7日: 教育ということ。

昨日はいつもより早く寝て、今朝は顔を洗い、少し散歩をし、ストレッチをした。その所為であろうか、頭が生き生きしている。午前中は、領収書とメールボックスの整理でほとんど潰れてしまって、教材作りがてんやわんやである。

とはいえそれも、学年別授業記録とは別に、教材作成計画表を作ってから、頭がすっきりしたような気がする。

つくづく、教えるのは難しい。学年が低いほどそうだ。
評判の良い参考書や教科書が改訂される時、「難しすぎるとのお声を頂戴した」旨のコメントが付されることがしばしばであるが、もっともなことだと思う。
著者としては、読者に期待し過ぎたのではなく、読者の認識に肉薄することが極めて難しいのだ。私も、生徒の誤答を見て、なるほどと認識を改めねばならなくなること稀でないが、それだけでなく、もっと一般的な意味において、彼らに対象(英文や方程式など)がどう見えているかを洞察するのは、困難を極める。

それも考えてみれば自然の成り行き、というのも学ぶということは往々にして既存の認識を破壊しつつ再構築することだからだ。ヘーゲルはアウフヘーベンという。アウフヘーベンされたものは、無に帰すわけではないけれども、同じ姿で見られることはないのである。意識は遍歴の後に感覚的確信に戻って来るが、それは元の感覚的確信と似て非なるものである。

中高生に、古文にせよ、英語にせよ、内容を味わってもらいたいという誘惑には警戒しなければならない。ほとんどの中高生に対しては、徒然草やリア王を味わってもらおうなどとは言うまでもなく無理な相談である。無論、好奇心やら自尊心やらによって楽しむことはできようし、強いて楽しませようとしないでさりげなく触れさせておくことは是非するべきだと思うが。中高生と書いたが、いわゆる難関大の大学生大学院生や、40代50代の大人の中にも、徒然草やリア王の味わいが分かる人というのはそう多くないのではないか。これは、教育とか教養とかの問題ではないだろう。教育は、規律を強制し、技術者や官僚に必要な技能を身に付けさせる営みという側面を失うことはないであろうし、教養は、それ自体としては空疎なマナーを身に付けることがその実質的な役目であり続けるだろう。

子供と向かい合う大人は、あくまでも、自分が辿ってきた道を基準として考える癖とおさらばしなければならない。子供は、現にかつての自分のようではないし、このさき今の自分のようになることもないのだ。その上世代間の意識差も無視できない。自分が洞察できない世界を生きる相手が、その世界で幸せに生きることを願って、接すること。


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