『破戒』の改訂と初版復原(続き)

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

昨日の続きです。

野間宏の批評

なお、初版本文が復原された『現代日本文学全集』の月報には、野間宏が「『破戒』における人間自然─『破戒』の初版本を読みて─」という文章を寄せています。
野間は、大阪市役所で勤務していたころに被差別部落に関する仕事をしていたという人物です。

野間は言います。
「「穢多」という言葉をさけて「部落民」という言葉にかえようとしたその藤村の心のなかに、部落民を差別するものがしのびこんでいたのである。……ただ部落民という言葉を用い、表現をあいまいにすることによって差別を取り去ったと考えたとすれば、そこにこそ差別する心がひそんでいたのである」。
また、強い響きを出す「だ」止めを全部やめてしまって、漠然とした響きの文末にかえられていることも、批判しています。

さらに、藤村が差別意識を拭い去ることができなかったことは、この作品の中に「あらゆる人間は対等であるという人間観を持った人物は一人もいない」という事実にも表れているといい、この『破戒』の弱点「をきわめることは明治時代の日本の心をきわめることである。これなくしては今日の日本の心を正すことはできはしない」といいます。

日本的な意識

藤村の振る舞いは、放送禁止歌などにもみられる、「臭いものには蓋」式の、日本的マナーを守っているようです。
批判を受けたら、それに真摯に向き合うことなく絶版にする。
手直しをして出しなおすのにも、差別用語を避ける、さらにあいまいな表現を増やす。
曖昧な表現は、藤村の特徴であり、持ち味にもなりますが、こういう弱点を持っていることは否めません。
「コンプラ」に反するとして糾弾をひとたび受けたら矢も楯もたまらず降参する現代人と、変わりません。

逆に、部落解放全国委員会の方は、放送禁止歌の場合と同様に、言葉を変えるだけでは何にもならない、差別用語が使われていようと、社会的現実を深く理解するためならば広められるべきだ、という姿勢を維持しているのは好感が持てます。
とはいえ、差別問題の理解が進んでいくだろうという委員会の意識は、むろん立場上当然のものとはいえ、現在ではややナイーヴにも見えます。
いまではむしろ、世の中がよくなっていくという信念をどうやって創造し、維持するか自体が問われなければなりません。

天皇制と部落差別

委員会の主張の中では、天皇の神格化と部落差別の連関を指摘したところが興味深い。
「直ちに」「ならざるを得ない」と書かれているこの成り行きが、少なくとも今の私たちにはそれほど直接的にも必然的にも見えないのです。
とはいえ、天皇制と被差別部落は、ともに日本社会の構造を規定している排除の仕組みであり、日本社会の両極に存するタブーであるという点、さらに、「家」と「血」の観念が色濃いという点で、両者の関連は考え続けなければならないように思えます。
日本独自の「ケガレ」と「キヨメ」の観念が働いているという見方もできるかもしれませんが、ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』や、ルネ・ジラールのもろもろの著作で指摘されているように、「聖なるもの」と「穢れたもの」は、普通の社会からは排除されなければならないという意味で表裏一体であるという構造は、普遍的にみられるようです。

(明日へ続く)

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