森達也『放送禁止歌』(光文社)

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

昔のフォークソングを聞いてみよう

岡林信康を検索して、『手紙』を、『チューリップのアップリケ』を、あるいは、『くそくらえ節』、『がいこつの唄』を、聞いてほしい。
どれもいい歌です。
歌詞を引用してもいいのですが、歌声でなければわからないことが多すぎます。
フォークというジャンルに私同様あまり親しんでいない人にはなおさら耳で聞いてほしいのです。

少し前には、こうした曲調、こうしたメッセージ性の歌詞、こうした歌声の歌が、日本中で流れていたのだと想像することは、あまり容易ではないようです。
隔世の感といいましょうか。

森達也さんの紹介

森達也さんは、映画監督・作家です。
『A』、『A2』、『福田村事件』などの映画や、『A3』、『死刑』、『U』などの著書があります。
森さんの作家としての姿勢は一貫して、自身の主観を隠蔽しないというものです。
そのため、「不偏不党」を固守するメディア業界にはじき出され、逆にそうしたメディアの体質を批判し続けています。
オウム真理教を扱った『A』、『A2』、『A3』、『A4』、関東大震災に伴う混乱の中で起こった殺人を扱う『福田村事件』、日本の死刑制度について、さまざまな関係者への取材を通じて論点を提示する『死刑』、相模原障害者施設殺傷事件(Wikipedia の見出しによる)で逮捕され、死刑判決を下された植松聖さんをテーマにした『U』、そのどれをとっても、作者の主観性(あるいはエゴ)が導きの糸として展開されている(『福田村事件』は劇映画のため例外)ことと、メディア批判が作品の中心近くで現れることは共通しています。

『放送禁止歌』は著者の青年時代の回顧から始まり、「放送禁止歌~唄っているのは誰?規制するのは誰?」というドキュメンタリー番組を制作するための取材の経過をたどるというものです。
「規制するのは誰?」について結論めいたものを書いてしまえば、規制する圧力があるわけではなく、メディアの自主規制による委縮が大きな要因のようです。
本書も、著者の主観に貫かれ、また、責任を持った表現を行うことができないメディアを批判しています。
なお、メディアの批判は、突き詰めればメディアを享受する視聴者の批判にもなります。
本書でも、特に部落差別問題に関連して、リスクを避けて責任をもった表現をしないメディアが批判され、視聴者についても、メディア同様、身近な差別問題について知ろうとしないことが批判されています。

放送禁止歌

岡林信康と山平和彦

本書で圧倒的な存在感を放っているのが岡林信康です。
割かれている紙幅で言えば、『竹田の子守歌』の方が多いし、岡林へのインタビューは結局実現しなかったにもかかわらず、否、だからこそ、でしょう。
森さんが制作したドキュメンタリー番組は、高田渡が「多分これは放送できません」と言ってライブの一曲目に『スキンシップ・ブルース』を歌うところで始まって、いろいろなインタビューを流した後、メディア批判、視聴者批判の形として、カメラと森監督を含めたスタッフの映った鏡を捉え、最後ほとんど真っ黒になった画面に岡林信康の『手紙』だけが流れる、というものだったと言います。
岡林は過去の話を嫌がり、特に『手紙』と『チューリップのアップリケ』の話は避けるのだといいます。
部落解放同盟のイベントで歌ったときにも、部落差別をテーマとしたこの二曲を、人気でもあり歓迎されてもいるのに、歌わなかったと。

決して憎しみを煽るのではなく、むしろ楽し気に「くそくらえったらしんじまえ」と歌い、「大事に大事に使っておくれよ一度しかないオマハンの命」と誰もを励ますように歌う岡林、しかし一切の取材を拒み、名曲を封印する岡林、奇妙な魅力があります。

次いで、山平和彦も印象の深い一人です。
放送禁止になるとは思いもよらず、メディア業界も含めて「みんなに喜んでもらえる」と思って作った自らのアルバムデビュー作は、その名も「放送禁止歌」。
歌詞を見ると、確かに猥褻な表現や暴力表現はありませんが、漢字ばかりが並んでいるのに驚かされます。
実際聞いてみるとさらに驚かされるのは、漢字ばかりの歌詞の印象に反して、軽快で哀愁のあるキャッチ―な曲調。
森さんが取材したとき、山平は表舞台から退いていました。
だからこそ、カメラの前で、山平自身の声で、「放送禁止歌」を歌ってほしいという無茶なお願いをした森さんに対して、歌って見せて「昨夜練習したんだよ」という山平。
ドキュメンタリーを劇場で流した後、歌手が実際に歌うというイベントに出てきて歌って「こうなったら」と復帰を宣言したといいます。
こちらも魅力的な人物です。

森達也さんのスタイル

岡林信康と山平和彦という人物が、どちらもそれぞれ魅力的であることは事実でしょうが、森さんが人物を描くのがうまいというのもまた事実です。
先に述べたように、森さんは自分の過去の話をしたり、自分の逡巡や、時には制作意図まで述べています。
しかしそれが、実にうまい。
だからこそ、森さんの目に映った人々に森さんが感じた魅力を描き出すのもうまいのです。
こういうスタイルを堂々ととって、しかも成功する人というのはまれです。

描写がわざとらしかったり、分かりづらかったり、あるいは思索が浅薄になったり、感情が表に出すぎたり、そうなっていないのは、森さんの優れた能力によるものでしょう。

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