インテリが錯覚して人が余計に惑うこと

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

「ネガティブ・ケイパビリティ」の誤用

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を初めて使ったキーツは、詩人の創作という具体的な行為のことを語っていました。
このことばを再発見したウィルフレッド・ビオンは、臨床医であり、多かれ少なかれ臨床という具体的な行為のことを念頭に置いて、語っていました。

いずれにせよ、「ネガティブ・ケイパビリティ」は、すでに具体的な行為があるときに、それを支えるものとして語られています。

では、昨今の流行語となった「ネガティブ・ケイパビリティ」は、いったい、どんな行為について語っているのでしょうか。
何もないのではないでしょうか。

為すべきことがないのに「ネガティブ・ケイパビリティ」ということを言うと、ただ無気力に世界に順応するのとどんな違いがあるのでしょう。

「ネガティブ・ケイパビリティ」は、創作なり治療なり、なすべき具体的な行為があらかじめわかっている場合にのみ意味を成すもので、そうでない場合にそれを語ることはかえって有害だと思います。
さらに言えば、創作や治療の実践に携わるほどの人は、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉で言われていることは、言われなくても弁えていてしかるべきです。
そうすると、もはや「ネガティブ・ケイパビリティ」はわざわざ語るほどのことではないといえます。

むしろ必要なことは、各人が各人の実践を自ら改めて発見し、それに勤しむことができるような社会を作ることです。

「ネガティブ・ケイパビリティ」よりも無害な神話を

一昨日引用しておいたキーツの言葉にも、「知性を高める」という言葉があったように、「ネガティブ・ケイパビリティ」は、天才とは言わないまでも、相当の英才について語られる能力です。
賢い人が、「知性を高める」ために、「ネガティブ・ケイパビリティ」を持とうとするのです。
多くの英才ならぬ人にとって、「なにも決心しない」ことは苦しいでしょう。
多くの情報が錯綜し、信頼のおけるものもなく、それどころか自分の生活もそう容易でないとなれば、「焦って事実や理由を求め」ないでいられるでしょうか。

インテリが、「ネガティブ・ケイパビリティ」を説くことに感じる違和感の源泉はここです。
インテリからすれば、自分が「ネガティブ・ケイパビリティ」を持とうとすることは現実的ですし、それが生活態度としても合理的です。
しかし、多くの人にとってはそうでないということを、インテリは分かっているのでしょうか。

私としては、「ネガティブ・ケイパビリティ」を持て、などという副作用の大きい荒療治を勧めるより、伝統、慣習、常識、礼儀といった、必ずしも正しくはないが、危険でもないものを守ることが大切だと思います。
焦って何かに決心するということを避けられないとすれば、決心するものが、極力害のないものであるように気を配るのが配慮というものでしょう。

自分の仕事を、それ自体為すべき実践として発見すること、そして発見できない間はなるべく無害な神話を、いわば「暫定道徳」として採用すること、これが、必要なことなのです。

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