ナイーブの問題(『放送禁止歌』評続き)

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

「ナイーブな問題」

昨日取り上げた森達也『放送禁止歌』を読んでいて、何度も登場して気になったのが「ナイーブ」ということば。
敏感で触れにくい、というような意味で使われているようです。
多少英語のわかる人なら知るように、これは元の naive とは意味が違います。
Longman と Cambridge Dictionary を見てみましたが、説明は似通っています。
簡潔なほうの Longman を引くと、こうあります。

not having much experience of how complicated life is, so that you trust people too much and believe that good things will always happen


人生がいかに複雑であるかということをあまり経験していないあまり、他人を信じすぎたり、いつもいいことが起こると思ってしまうこと

https://www.ldoceonline.com/dictionary/naive

好感半分嘲笑半分で言われる「若いねえ」とか、「無垢」とか、「垢ぬけない」とかに近い感じです。

対義語を調べると、sophisticated, cynical, experienced, worldly などが出てきます。
日本語で言うと、「世間擦れした」という言葉に近いです。

やるせない言葉の変遷

今調べると、「世間擦れ」という言葉も、「世の中の考えから外れている」という意味に誤解されるようになってきたようです。
言葉の意味が変わるのは悪いことではない、と決まり文句を言いたいですが、不勉強な人たちのために多くの人が配慮して、いろいろな言葉がつかえなくなるのは、困ったことです。
九鬼周造が、「こよみ」と言ったら「カレンダー」のことかと言われて呆気にとられた、と言って、外来語をむやみに使うことを戒めた文章がありますが、言葉への敬意を持たないものが言葉をもてあそんで駄目にしてしまうというのは、いらだたしいものです。(「外来語所感」)

話を戻して、日本での「ナイーブ」の用例を少し調べると、例えば森田草平は元の意味で使っているようです。
いつ、どのように今のように変わったのでしょうか。ちょっと、気になります。

言葉の意味が変わること自体が悪いとは思いません。
ただ、『放送禁止歌』でのこの言葉というのが、「この問題はナイーブだから…。」という、厄介なものを直視しようとしない責任回避の場面で使われているものだから、よけい気にかかったのです。
「ナイーブだから」というのは、何も説明していないようなものです。
「触れたら面倒なことが起こるから」と言えば、「その面倒なこととはなんだ」と意識が向きそうなものですが、「ナイーブだから」というのはタブーの符牒のようになって、注意がそこでストップするような、煙に巻くのにちょうどいいジャーゴンになっているのではないか、という気がします。

死刑に処された歌

放送禁止という「死刑」

もう一つ、触れずにはおれないのがこの点です。

森さんは、以下のように述べています。

部落にかかわりがあるらしいというだけで、放送禁止歌という死刑に等しい決定的な宣告をメディアは多くの歌に与えてきた。この無自覚な条件反射は、部落に生まれたというだけで蔑視の対象と見なし、人としてのあたりまえの権利や生活を強奪してきたこれまでの差別の歴史と、意識構造においては寸分たがわず重複する。

角川文庫版p. 230

「死刑」という人をぎょっとさせる表現(もはやぎょっとさせることすらなくなっているのかもしれませんが)は、軽はずみに選ばれたとは思えません。まだ『死刑』の取材を始める前だったとはいえ、『A』で取材しているオウム真理教の幹部の一部にはすでに死刑判決が下っています。
なにより、森さんは、歌手の口からそれに近い言葉を引き出すことに成功しています。

しばらく沈黙した山平和彦は、ギターを抱えたまま、囁くように、自分に言い聞かせるかのように、ぼそぼそとこうつぶやいた。

「……歌がもし生きているとしたら、……僕は誕生間もない子供を殺されたようなものかもしれないですね。……あんな理不尽な規制にあうようなことがなかったなら、もしかしたらまだ今も、僕は歌を続けていたのかもしれないな」

同書p. 61

差別を支えるのは「無自覚さ」である

「無自覚な条件反射」によって歌を「死刑」にする。被差別部落も同じように「無自覚な条件反射」によって蔑視されてきたと、森さんは言います。
本書の「あとがき」で紹介されている話によれば、部落出身の男性を連れてきた娘に、「同じ人間だ、反対などするわけがない」と言ったある父親は、同和教育の専門家でしたが、結婚式の前夜になって「部落民」、「穢多」などと絶叫しながら罵倒し始めたのだといいます。

この痛ましい話は、差別を支えるものが「無自覚さ」であることを示唆しています。
この父親は、同和についての知識を身に着け、同和を教えてはいましたが、その知識の中に自分自身はいなかったのです。
自分が部落出身者の親類になることも、自分が部落差別に(好むと好まざるとにかかわらず)加担していることも、彼の想像力の埒外にあったに違いありません。
社会の構造が変わるには、多数派が自らの加害性を自覚する必要があります。

加害者が加害者性を自覚しなければならない

それはもちろん、部落差別に限った話ではありません。
第3章で、デーブ・スペクター氏は「簡単には比べられないけど」と前置きをして、こういっています。

差別される当事者の黒人側だけでなく、差別する側の白人が、自ら問題提起をし始めたときに運動の展開は大きく変わったんだよね。

同書p. 167

そのうえで、部落差別問題においては「される当事者」ばかりが問題提起をしていると指摘しています。

放送禁止問題についても、日本のようにどの放送局も横並びに「放送禁止歌」が存在するような状況(しかも誰が禁じているかがあいまいにされている状況)は、アメリカにはないといいます。アメリカでは、放送規制はあるにせよ、どれも制作者の判断で行っているものだと。

死刑制度をめぐって

このことは、死刑制度をめぐる状況を想起させます。
アメリカは死刑を存置している州が存在しますが、州民自身の意志のもとで死刑が執行されているという意識が割合強いようです。
死刑をめぐるシステムが、日本ほどブラックボックス化していないこと、日本より主権者意識が強いこと、死刑存廃が州によって違うことで、死刑があって当たり前という感覚ではいられないこと、などを考えると、もっともだと思います。
逆に、日本人にとって死刑は、どこか知らないところで、自分とは関係のない極悪人が死ぬという程度のことでしかない。
自分が主権者であるということも、ましてや自分が間接的に殺人者になっていることも、決して意識されないようになっています。

(念のため言い添えますが、私は絶対に死刑を廃止するべきだと主張するものではありません。ただ、日本が少なくとも建前上民主国家を自称し、一応代議制民主主義が機能している限り、死刑の執行によって、間接的にではあれ国民の手は血に汚れるということは、確かであり、このことを国民が十分に知らないことは、無責任であると思います。)

私たちは幻想の中を生きている

本書を読み終えたとき、ふと想起した言葉があります。

自分自身が考えていることを反省するなら、他人を非難するなどという厚かましい真似がどうしてできるだろう。私たちは人生の大部分を幻想の中で生きている。だから私たちが想像力豊かであればその分だけ、幻想は豊かになり生き生きとしたものになる。自分の幻想が自動的に記録され面前に突き付けられるとしたら、それに耐えられる人はどれほどいるだろう。きっと、恥ずかしさに打ちのめされてしまうだろう。

Somerset Maugham "Summing Up" William Heinemann, p. 36

訳も分からず表現を反射的に規制してしまうメディア人の脳中には、ありもしない規制権力が実在している。
「放送禁止歌」なるものがあるという幻想が確実に存在しているのは、規制権力という幻想が根深いことを示しています。
ほとんどすべての人がありもしないものをあるかのように思い込み、自縄自縛に陥り、その結果自分以外の人々をも不自由な幻想の中に閉じ込めてしまうという構造が、メディアの世界にはある、ということを森さんは書いています。

その絶望的なまでにはびこった、それ自身絶望的な幻想に対して、森さんのとる態度は単純です。
世界はよくなるという希望です。
「人はどうしようもなく愚かだけど、同時にとても優しい存在であることを、僕は知っている」と彼は言います。
これは、他の作品の結論としてもよく書かれています。

モームの言うように、私たちが幻想の中を生きているのだとすれば、より楽観的な幻想を持つようにすれば、私たちの生活は実際によりよくなるはずです。
ある種の naive さをいつも持っておくこと。いわば、地に足の着いた naivete が必要なのです。

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