ネガティブ・ケイパビリティと「没理想」

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

坪内逍遥の「没理想」

明治の頃の話。
坪内逍遥が、「『マクベス評釈』の緒言」の中で、シェイクスピアの特徴を「没理想」と表現しました。
作品の中に作者の意見が表れておらず、出来事が巧みに描かれているということです。
その表現に対して、森鴎外が難癖をつけました。

今ではこの論争は、お互いの「理想」の指すものが異なっているゆえに起こったものだとされています。
この論争自体には、今は用はありません。

昨日も触れた、齋藤勇は、この論争に触れて、以下のように言います。

逍遥はキーツの 'negative capability' ... を聞いたら、なるほどと微笑したであろう。

『齋藤勇著作集第六巻』pp. 422-423

なるほど、逍遥の「没理想」とキーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」は通ずるものがありそうです。

鷗外と言えば、「妄想」の中で「多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかった」と言っています。
これも、「ネガティブ・ケイパビリティ」ではないでしょうか。
「則天去私」と言った英文学者の漱石よりも、自分の主観を控える鷗外の方が、「ネガティブ・ケイパビリティ」に富んでいるようです。

やや特殊な用例

さらに、齋藤勇さんの少年期を回想したものの中に、以下のような話があります。
ワーズワース Wordsworth の感化を受けて、自然に直接学ぼう、自然のすべてをあるがまま受け入れようと決心して、17歳のころ学校をやめたといいます。
そして、そのことについてこういっています。

のちになって彼が気づいたように、この受納力尊重の一念は、青年詩人キーツがしきりに大切だといった'negative capability'(消極的でいられる能力)すなわち我を通そうとすることがなく、またなんでも割り切ったり解決してしまえなくとも焦燥を感じないで、静思黙想のできる心とも相通ずるところがある。

『齋藤勇著作集第六巻』p. 455

negative capability を、キーツの思想や詩人論としてでなく、誰にでも当てはまりうる能力として書いた、早い例だと思います。

ちなみに、学校をやめたきっかけとなったワーズワースの詩は、以下のものだそうです。

Books! 'tis a dull and endless strife.
Come, hear the woodland linnet.
読書か、つまらない無限の努力だ。
出てきて森かげの紅雀を聞きなさい。

「ワーヅワスの2行詩」(齋藤勇『蔵書閑談』所収)

高山樗牛の学校悪罵の影響もあったそうです。
そして、結局英文学の道に生きることになった自らを顧みて、

「読書はつまらない無限の努力じゃないか」と、誰かに笑われるかも知れない。しかし私は「読みたい本は古今東西にまだまだ多いが、こう老いぼれては...」とつぶやくほか致し方がない。

と言っています。

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