下村湖人『論語物語』を見つける
愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。
『論語物語』
押入れの本の山を整理していると、下村湖人『論語物語』が出てきました。
下村湖人は、『次郎物語』でも有名な人物で、昭和期の教養主義を象徴する人物の一人です。
ちょっと気になったので、最初の章だけ読んでみました。
論語に出ている孔子や子弟の言葉を、物語風に語りなおすというものです。
なかなか、現代で読まれるのは難しいだろうと感じます。
たしかに湖人は、孔子や門人の言葉を深く読み込んで、その底にある感情や経験を、(もちろん主観を交えつつ)引き出すのに成功しています。
その点では、論語の含蓄深い言葉を、より親しみやすくしています。
その一方でしかし、湖人の物語は、論語の持ついい意味での曖昧さを、曖昧なままにしています。
湖人は論語をよく読み、敬愛し、なるべく元の含意を台無しにしないでやさしく紹介しようとしたのです。
今の出版界が、読者向けに論語の言葉を紹介するとしたら、いわゆる「超訳」的に、一義的に理解できる「わかりやすい」解釈を取るでしょう。
実際、『マイメロディの論語』や、同シリーズの本は、そういうものです。
念のため言いますが、私は現代の「わかりやすい」古典入門をくさすつもりは全くないのです。
それはそれで入り口としての役割を果たしているに違いありません。
現に私自身、本を読み始めて良書と悪書の区別が全くつかなかった頃は、こうした「低俗」な啓蒙書を読んだものです。
それは、確かに良書ではないし、ある視点からは「低俗」と言えるものです。
しかし、私がそこから学び取ったものは、必ずしも「低俗」ではありませんでした。
むしろ、私が書物から得た「低俗」さを思えば、それはある種のインテリの見識の狭さだったでしょう。
「低俗」な啓蒙書は、「高尚」な啓蒙書よりも、概して害の少ないものです。
さて話が逸れましたが(閑話休題、とは古い言い方ですね)、湖人の『論語物語』は、忍耐力のない読者には楽しめないかもしれません。
しかし、『論語』を全然別物に貶めてしまうことはしないで、その上で可能な限り親しみやすくしている良書です。
他の『論語』入門とは違って、この本を読んだならば、『論語』を読んだといっても嘘にはなるまいと思います。
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