7月8日: 先ず隗より始めよ(ふたたび外来語について)

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

先日、外来語と国語について思うことを書きました。
今日はそれに関連してちょっと驚いたことがありました。
ちょっとまえおきが長いですが、飛ばしても読めます。

まえおき

先ず隗より始めよ

燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。」 隗曰、「古之君有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之。況生者乎馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」

於是昭王為隗改築宮、師事之。於是士争趨燕。


燕人、太子平を立てて君となす。これを昭王となす。死を弔ひ生を問ひ、辞を卑くし幣を厚くして、以つて賢者を招く。郭隗に問ひていはく、「斉は孤の国の乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。孤極めて燕の小にして以つて報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得てともに国を共にし、以つて先王の恥を雪がんことは、孤の願ひなり。先生可なる者をしめせ。身これに事ふることを得ん」と。

隗いはく、「古の君に千金を以つて涓人をして千里の馬を求めしむる者あり。死馬の骨を五百金に買ひて返る。君怒る。涓人いはく、『死馬すら且つこれを買ふ。況んや生ける者をや。馬今に至らん』と。期年ならずして、千里の馬至る者三あり。今、王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや」と。

ここにおいて昭王隗のために改めて宮を築き、これに師事す。ここにおいて士争ひて燕に趨く。

故事成語、「先ず隗より始めよ」のもととなった逸話です。『十八史略』にあります。
本文および読み下し文は Wikibooks によりつつ、読み下し文は読みがなを省き、一部の漢字をひらがなに直しました。

一読明解な文章ですし、特にこれを注釈することはしません。
語釈については、前記 Wikibooks を参照してください。

「先ず隗より始めよ」の意味の確認

隗は人名です。「先ず隗より始めよ」は、「優れた人物を得るために、まず手もとにいる多少優れたこの私、隗を厚遇してはどうか」という提案です。
それが「転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよの意にいう。また、物事はまず言い出した者から、やり始めるべきだとの意でも用いられる」(『精選版 日本国語大辞典』より)。

例文として、やや古いですが、以下の文章が引かれています。「『多少酒手を奮(はづ)みまして、最(もう)一骨折ってもらはうぢゃございませんか。何卒(どうぞ)御賛成を願ひます』渠(かれ)は直に帯佩(おびさげ)の蟇口を取出して〈略〉やがて銅貨三銭を以て隗(クヮイ)より始(ハジ)めつ」(泉鏡花『義血侠血』)。
これは、馬車の乗客が、人力車に対抗心を燃やして、休まず馬をやってくれと御者に頼む場面で、発言者は「御者にも悪いから、みんなで金を出し合って御者にチップをやろう」と言って、自分から財布を出して「隗より始め」た、というわけです。

①「遠大な計画も、まず手近なところから着手せよの意」がさらに転じて②「物事はまず言い出した者から、やり始めるべきだとの意」になったわけですが、この例文は②の方ですね。遅くとも1892年には、②の方の意味ができていたことになります。
今使われるのも主に②の方でしょう。

日本における「隗より始めよ」の類型試論

ところで、ためしにと思って青空文庫で検索すると、ちょっとおもしろいことを発見しました。

まず、上の①に当たる意味で使われる用例は、見当たりません。
つまり、日本では、この言葉はほとんど「言い出しっぺが始めるべし」という意味になっています。

みたところ、まず自分に向けて言っているものと、他人に向けて言っているものとに大きく分かれます。

後者では、「あなたからやってみてください」という意味になります。
これは勧誘(やってみてください)の場合もありますが、挑発(やれるもんならやってみろ)の意味に転ずることもあるようです。

前者では、原文に近い「私から始めてみてください」という意味の場合もあるにはありますが(ただしこれは比較的古い人物の手になるものであり、形も「自隗始」となっている)、単純に「私から始めます」という意味が多く出てきます。

ちょっと興味深いのは、自分に向けて言っている用法で、もう一つの方の挑発のニュアンスが入ることです。
「私から始めます」ということを言っているには違いないのですが、「お前からやってみろと言われそうなので、さっそく私から」というニュアンスが入るわけです。

現代の「先ず隗より始めよ」の用法

そう考えると結局、日本では「隗より始めよ」というときに「隗」が発話者自身を指していることはほとんどないのかもしれません。
つまり、「隗より始めよ」は、「言い出したものがまず身を切れ」というような意味に落ち着いてしまったわけです。
なんとなく、日本的な気がします。
とはいえ、元の故事でも、「私を必要以上に厚遇せよ」という意味において、相手にコストを求める要素はあったわけですから、それが残ったのかもしれません。

本題

今日私が驚いたこと

「言い出したものがまず身を切れ」という意味になってしまったとき、「隗より始めよ」の「隗」は「おまえ」のような意味で受け取られるようになったのだと思います。

その時点ですでに、ことばと意味内容、が乖離してしまっています。

私が今日驚いたというのは、産経新聞のネット記事で、「かいより始めよ」という表記を目にしたことです。

記者自身のコメントではなく、取材相手の発言内容ですが、20年以上の経歴を持つ記者がこの言葉を知らないということがあるでしょうか。
万一、この言葉を知らないとしても、書き起こすときに調べることはできたはずですし、省いてもいいはずです。
記者のみならず、その記事をチェックする人も見逃したということになります。

「かいより始めよ」と記事に載せるということは、やはり、これが正しい、あるいは少なくとも許容されうる表記だと考えたということでしょう。
常用漢字表には、もちろん「隗」の字はありませんが、同じく常用漢字外の「蔓延」は記事内に見えるので、そういう配慮ではないようです。

無教養な書き手が言葉を変える

「かいより始めよ」。この表記を採用した記者とそれをチェックした人は、故事を知らないのはもちろん、「隗より始めよ」という言葉を教科書や本や辞書で読んだ経験がなかったに違いありません。
そうした経験があれば、この言葉の内容と「隗」という漢字とが結びつきます。
この漢字なしでは、この言葉の持つ意味も感じも一向に出てこないというくらいのことは、文章を読める人ならだれでもわかるはずです。

ところがその程度のことも分からない。
ということは文を読んでいない。
というのは何も、古典を読むだ文学を読むだということではない。
分からない言葉は辞書を引くという程度の次元のことができていない。
文を読んでいない人が、記事を書き、文を読んでいない人がチェックしている。
ことばが誤用され、文化が忘却される。

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