「実用英語」への疑念

よい問題とは

このところ、英語の問題を作るのに精を出している。つくづく感じることだが、簡単な問題を作るのはとても難しい。
なぜなら、よい問題とは、

⑴英文がおもしろく、
⑵自然で、
⑶重要な構文ないし語句が多く含まれていて、
⑷難しすぎないもの

のことであるが、問題を簡単にするということは⑷の条件を厳しくするということに他ならないので、そうすると⑴、⑵、⑶のほうで犠牲が生まれるからである。
そして、たいていの教科書や問題集や試験は、⑶を犠牲にしたがらない。
結局、英文自体のおもしろさと自然さをかなり犠牲にすることになる。

本末転倒ではないか。

⑴について

実用英語は難しい

なるほど、おもしろさに関して言えば、ある反論が予想される。
おもしろい英文を味わうことだけが英語の学習ではない、むしろ、英語を様々な必要に応じて「使える」ものにすることが英語教育の主眼だと。
しかし英語を実用する喜びは、例えば外国人と話すとか、英語で書かれた説明書きを読むといった、実用的な場面での成功によって得られるものである。
それは、教育の場において実現させることの困難なものではなかろうか。
いま、現場では実用的な会話文を覚えさせたり、生徒同士で会話させたり、説明書きなどを読ませたりしているが、そうした実践に、理解してもらえた、理解できたという喜びはほとんどない。
本当に理解してくれないかもしれない他者が存在しないからである。

文学英語は簡単である

文学英語ではなく実用英語を、という意見それ自体に、あえて異を唱えるつもりはない。
ミルトンや徒然草が読めても、争いを収拾する言語力がなければもちろん駄目だ。
(ところで、「社会に出て使うかどうか」を持ち出すのがナンセンスだというのはここで言うまでもないと思う。)
私が言いたいのは、実用英語は、教室でおもしろく教えることが難しいということである。
その限りでは、文学英語のほうが習得がたやすい。
文学英語の喜びは、単にそれを音読することにさえあるのだから。
このことは、案外ご存じない方もあるかもしれない。
しかしなんであれ知らないからと言って認めようとしないのは横暴というものだ。

⑵について

不自然な英語という現象

また、実用的な英語をと思って作った例文が、英語として不自然であったら、それこそ本末転倒である。
難しすぎないようにと気を配るあまり、とてもお手本にはできないような妙な英文が出題されることは、中堅私大の現代文に悪文が多いのと同様よく見られる現象だと思う。
多少難しくても、自然でなければならない。
現に存在する面白い英文から借用すれば、自然さについてもほとんど気遣いはいらない。
その英文はちょっと難しいかもしれない。しかし、学習者にとって、対象が難しいのは当然すぎるほど当然だ。
重要なのは難しくても学習する気になる面白さがあるかどうかである。

文法偏重から実用偏重へ

「文学英語」にもいろいろある

かつては、文法偏重、読解偏重という弊害は、確かにあったであろう。
いまはその反動である。
「実用英語」を重視することが、英語力向上にどうつながるであろうか。
「文学/実用」という区別を考えてみると、そこでいう「文学」は、広いものであるはずだ。
一部の役人たち(あるいはそれを忖度する現場の人々?)が「実用」と見なすもの以外はどれも、ことごとく「文学」に入れられる。
聖書や詩はもちろん、歴史についての叙述も、政治的な議論も、「文学英語」であるし、科学上の新発見についての報告や、手紙や日記も、場合によっては「文学英語」に入れられるだろう。
であれば、おもしろい、暗誦に耐える文学英文をたくさん読んでいけば、やはり実用の役にも立つはずである。

本当にやり方が悪いのか?

日本人に実用的な英語力がないのは、文法偏重、読解偏重のためなどではないということはしばしば指摘されてきた。
つまり、文法や読解の勉強が単に不十分だからだと(例えば朱牟田夏雄『翻訳の常識』)。
かつて、ある語学の先生は、「明治の文人は、いい教科書も辞書もないのに外国語が良くできたではないか」ということを言ったという(千野栄一『外国語上達法』)。
二葉亭四迷や森鴎外が外国語に達者だったのは、彼らが勤勉だったからであり、また、外国語が面白かったからであろう。

だとすれば、勉強不足を、やり方のせいにするのはすり替えである。
やり方を変えれば改善するかのように考えるのは、ご機嫌取りの弥縫策だろう。
実質的な勉強の量をはっきりと増やす改革が成功しない限り、英語力が本当に向上することはないだろう。
それ以外の英語教育改革には、教育以外の原因があるのではないかと疑ってみたくなる。

おもしろい英文とは

あとこれはちょっと別の話だけれども、おもしろい英文というときに、中高生にとっておもしろいかどうかを考慮しすぎるのもよくないと思う。
第一に、中高生にとっておもしろいかどうかは、原則として大人には分からないものである。
第二に、読んですぐおもしろさが分かるものは、結局おもしろいことがまれである。

私の経験から言っても、おもしろさを味わうのに時間がかかったものの方が、そうでないものより深いおもしろさがあるように思う。
小西甚一が『古文研究法』の「おわりに」でいうように、中高生に徒然草のおもしろさはわからないだろう。
しかし、―私はあえて付け加える―徒然草のおもしろさが分からなくても、おもしろさを予感することはある。
感受性豊かで辛抱強い中高生は、そこに何か不思議な力があると感じることがあるものだ。

だから中高生にとって今おもしろいかどうかを気にせず、おもしろいと思うものはどんどん読ませるようにすればいい。
現代文の題材では小林秀雄、丸山眞男、加藤周一などが50年前と同じく出され続ける。
英語のほうでは Maugham も Russell も Huxley も見なくなっている。
なぜなのだろう。

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