現代の「ネガティブ・ケイパビリティ」について

愛知県一宮市の個人塾、いしだ塾の塾長、石田喜嵩です。

ネガティブ・ケイパビリティについてひとこと

書簡本文のおもしろさ

昨日「ネガティブ・ケイパビリティ」についてのキーツの書簡を訳してみました。
まず、「ネガティブ・ケイパビリティ」と直接関係のない前半部もおもしろいことに気づきます。
冒涜のかどで告発されたホウンが見事に無実を勝ち取って、言論の自由を守るのに寄与したことに感動しているのは、良識的な若者という感じがして喜ばしい。
ベンジャミン・ウェストの絵画を褒めつつ、不快だと評し、「いつでも、芸術が優れているのはその強烈さによる。美と真と深く交わることによって、あらゆる不快を蒸発させる強烈さによるのだ。」という一般論を引き出すところや、そこでも『リア王』を引き合いに出すところも、キーツらしい。

「ネガティブ・ケイパビリティ」が表れる後半についても、ホリス・スミスなどの俗物に悪態をついているのが興味深く気づかれます。
近い日に起こった出来事で、書簡中で直前に来ていることから、このスミスらについての悪口も、「ネガティブ・ケイパビリティ」と関係があると考えるのは不自然ではありません。
ディルク君と彼が話した内容に、スミスらのことが入っていないと推測できる根拠はありません。

もしかすると、彼らのマンネリズムが、「不確実さ」を極力排除しようという暗黙の目的に基づいていることを、キーツがかぎ分けたのかもしれません。

ネガティブ・ケイパビリティの意味

さらに、「ネガティブ・ケイパビリティ」というのも、昨今よく使われているような、分からないことを分からないままにしておくというだけの意味ではないことも分かります。
キーツはこれを詩人が成功するための資質として語っているのです。
詩人は、知的にはよく分からない「神秘」を、「美の感覚」を頼りに歌うということです。
ようするに、芸術は解釈で分かるものじゃない。「詩人は美しいものを歌ふ気楽な人種ではない。在るものはただ現実だけで、現実に肉薄するために美しさを頼りとしなければらないのが詩人である。」(小林秀雄「物質への情熱」)ということを言っているわけです。

これが、いろいろな人に使われるうちに、今のような意味になったというわけでしょう。

不確実性の時代で…?

しかし、話をそれで終わらせていいものか。
というのは、キーツの場合では「不確実さ」を受け入れてもその代わりに事柄を判別してくれる「美の感覚」があったのです。
いわば、事実や知識の次元ではネガティブな態度をとる代わりに、制作の実践においてはポジティブなものがあるのです。
現在使われている意味での「ネガティブ・ケイパビリティ」は、「美の感覚」だけでなく、そうしたポジティブなものが含意されていないようです。
しかし、そうしたポジティブなものが全くなかったならば、「ネガティブ・ケイパビリティ」などということがあるでしょうか。
事実はよく分からない、どうであるべきかも分からない、そんな全面的にネガティブな状況を受け入れることは虚無主義ではないでしょうか。

実際はおそらく、「ネガティブ・ケイパビリティ」を語る人々は、「善」を信じているからこそ、それを語ることができるのでしょう。
陰謀論者も、アクティビストも、インテリも、何かを信じているのです。
そこに難しさが潜んでいるような気がしますが…。
このくらいにしておきましょう。

追記

このくらいにと思ったものの、改めて「ネガティブ・ケイパビリティ」を検索してみると、やはり二、三書きたいことが出てきてしまいました。

ネガティブ・ケイパビリティは獲得できるものではない

一つは、「ネガティブ・ケイパビリティ」の「獲得」について。
調べると、どうやら「ネガティブ・ケイパビリティ」を身に着けるとか獲得するとかいう語り方があるようです。
それを見てハッとしたような思いです。「獲得」できるかという問いの立て方自体が、意想外だったのです。
ともあれ「ネガティブ・ケイパビリティ」が大事だ大事だと言っていれば、それはやがてどうやってそれを獲得しようかという問いに転嫁していくのは自然の成り行きです。

しかし当初それを言い出したインテリたちが、「ネガティブ・ケイパビリティ」が獲得可能なものだと思っていたか、どうか。いや本当に、どうなんだろう…。
いずれにせよ、私は大雑把に言って獲得可能だとは思いません。
第一、キーツにしてからが、quality (資質)と言っていますし、大詩人コールリッジにはそれがないと見ているらしいのです。
そもそも「獲得」をうんぬんできるようなものではないのです。

ネガティブ・ケイパビリティはすっかり新語になってしまった

もう一つは、流行語について。
改めて調べなおすと、「ネガティブ・ケイパビリティ」はキーツの言葉でも、キーツを読んだ人の言葉でもなく、完全な流行語になってしまっていることに気が付きました。
この言葉は、キーツ研究では早くから注目されてきたものです。
キーツに関する文献を手に取れば、必ずと言っていいほどみられるものです。
また、私が初めてこの言葉を見たのは、大岩鉱『正宗白鳥論』(1971年)という本でした。
どう書かれていたかは忘れましたが、正宗白鳥の特徴をネガティブ・ケイパビリティという言葉を手掛かりに探るという文脈です。

このように、キーツとは離れて使われる用例も、50年以上前にあったのです。
だから日本で使われるとしても、それなりに受容の歴史のある言葉であるはずなのです。
ところが現状を見るに、インテリたちがその受容史にさほど敬意を払わなかったからか、伝聞業者が仕事をしすぎたからか、それとも言葉の歴史などを理解しようとする読者がいなくなったからか、この言葉の受容史は、きっぱりと断絶されてしまったように見えます。
言葉がはやると歴史は埋もれるものなのでしょう。

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